とある参謀の読書日記
戦記関連の本を読んでいて気になったことや感想などを随時書いていきたいと思います。
奇跡の飛行艇
光人社NF文庫 記
2011/08/17
この本の中にアンボン島より更に前線のマイコールというところを拠点にしている
九三四航空隊で河口猛飛行兵曹長という方が出てきます。
零式水上観測機で敵機38機を撃墜した猛者なのですが、撃墜ランキングなどで
あまり見かけない人なので新しい発見でした。
実際はこんなに墜としていないかもしれませんが、下駄履きで速度が遅く弱武装の零観で
10機も落とせばかなり凄い事です。
あと、3号爆弾でB17の15機編隊を8機撃墜したという話もありました。
3号爆弾は有効ではなくあまり使われなかったとの事ですが、戦術をもっと研究すれば
有効に使用できたのではないかと惜しまれます。(実際に岩本徹三氏など一部のパイロットは多大な戦果を上げていた)
もちろん、著者の北出さんも昭和20年になってから南方と本土を飛行艇で往復した凄い人です。
日本軍の小失敗の研究 光人社NF文庫 記2011/09/05
昭和12年 死傷者 4万1000人(第二次上海事変含む)
昭和13年 死傷者 5万3000人
昭和14年 死傷者 13万1000人(ノモンハン事変含む)
昭和15年 死傷者 8万2000人
昭和16年 死傷者 5万6000人(10月まで)
昭和16年11月までの戦死者は約15万人、負傷者は50万人にのぼるものと思われる。
アメリカの戦死者(1941年12月〜1945年8月まで)
戦死者45万人、負傷者108万人
統計的なものが好きなのでこれから備忘録替わりにちょくちょく書くと思います。
勝ち戦の日中戦争でも意外と損害が多いのに驚きましたが、兵力差が中国軍のほうが圧倒的に多かったし戦果もかなりあげてたのを考えると
しょうがないような気もしますが、だらだらと長い戦いになって犠牲を多くした点は反省の余地があります。
タイトルの通りの内容ですが、主にアメリカ軍との比較なので日本軍がズタボロに叩かれています。
当時のアメリカは反則的なまでの国力を保有していたのでどこの国も太刀打ちできないので比較されたらひとたまりもありませんが、
確かに物量以外でも優れた部分はあります。結局のところ、余裕のあるアメリカ軍と劣勢で余裕の無い日本軍の違いだと思います。
秘録
陸軍中野学校 新潮文庫 記2011/10/08
日本は諜報戦でかなり立ち遅れていたので非常に不利な状況でした。
もし、満州事変や支那事変が起こる前に中野学校のような諜報組織があったら日本はあんな直接的な行動を起こさなくても
中国の無法な振る舞いやテロ行為を阻止して戦争を防止できていたのではないかと思います。
中野学校は昭和13年に設立され、太平洋戦争が起こる直前に中野学校卒業生が活動を開始したので戦時中にはかなり活躍しています。
諜報と防諜は表裏一体ですので中野学校出身者が陸軍省に忍び込んで機密文書を盗み出してみせたりして防諜意識の高まりにも貢献しています。
中野学校卒業式における杉山元参謀総長の訓辞「諸君一人一人は即ち一個師団の兵員である。諸官ら優秀なる秘密戦士は、敵の何個師団もの兵力を壊滅せしめるであろう。」
という言葉が印象に残っています。
「謀略は誠なり」の日本のやり方は一見奇異な感じもしますが、実際は誠心誠意で味方に引き入れた協力者などはよく活躍してくれ
金で買収したり脅迫するよりはよっぽど成功したのではないかと思います。
商船戦記 光人社NF文庫 記2011/11/03
大内建二氏の商船シリーズの一冊です。主要な戦いを知り尽くした身としてはこういったマイナーな戦いにスポットを当てた話は新鮮で興味を惹かれます。
ちょっと気になったのが、日本で一番犠牲者を出した戦没輸送船は隆西丸の犠牲者数4999名とありますが、ネットで調べてみたところ丹後丸という船が
同時に沈められており5734名が犠牲となったとの記述がありました。
この本の戦没輸送船の犠牲者数上位30隻一覧には何故か丹後丸の名前が無いのが気になりました。
他に順陽丸という連合国軍の捕虜を乗せた船が沈んでいますが、この本の中では犠牲者数2915名ですが、ネットで調べたところでは5689名となっています。
ともかく、陸に上がれば無類の働きをする陸兵があたら海の藻屑となってしまうのはあまりにもったいないというか悲しい事です。
他に興味深かった話としては、ドイツの仮装巡洋艦トールが日本の港で爆発事故に巻き込まれて沈んだ話(ドイツのタンカーが原因で日本の船や施設が巻き込まれて迷惑な話だがタンカーは本国に帰れず日本の油輸送に協力した上での事故なのであまり責められないが)
と終戦間際の朝鮮でソ連軍の空襲を受けて輸送船が多数沈められた話は知らなかった。
太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍真実の艦艇史2 記2011/11/03
この本の169ページから2隻のアメリカ潜水艦にまつわる気になる話が載っていました。
レイテ湾に突入する予定の栗田艦隊が昭和19年10月23日にパラワン水道で潜水艦の待ち伏せを受け重巡「愛宕」「摩耶」が沈没「高雄」が撃破されましたが、このときの米潜が「ダーター」と「デース」でした。このとき「ダーター」は浅瀬に乗り上げて座礁したため日本の調査団が派遣されて艦内を調査したらしいです。乗員が脱出した後なので重要なものは破棄されていたと思われるがどうだったのか気になります。
昭和19年10月24日、台湾近海で日本の船団を攻撃していた潜水艦「タング」は自分の発射した魚雷が戻ってきて自爆、沈没しました。
船団を護衛していた第34号海防艦は被雷した輸送船を救助するとともに米潜水艦乗員4名を救助。付近を捜索したところ水深30メートルに
沈座している「タング」を探知。さらに脱出してきた乗員10名を捕虜とする。水深が浅いこともあり日本は暗号書類や機密書類の捕獲を計画するが丁度気象条件の悪い時期だった為作業は難航しそうこうしているうちに戦局が悪化し作業は中断されてしまいました。こちらは重要書類を破棄する時間は無かったと思われるのでうまくいけば捕獲できたと思われます。
雑誌「丸」84年2月号 記2011/12/4
部屋の整理をしていた時に目に留まりました。記事は「海底の戦艦から揚がった満州刀の真価」大河内常平著
支那事変の頃から軍刀の需要が急速に高まった為、刀工が手作りで作る刀では時間が掛かるため需要には答えられません。
そこで簡単に作れる半鍛刀や粗悪刀などが大量生産され出回りました。作り方がいずれも千差万別なので粗悪品も多くありましたが
中には旧来の日本刀を凌駕する高性能品なども出現しました。その中に満鉄が作った「興亜一心」という銘の刀があります。
戦時中、呉軍港で爆沈した戦艦「陸奥」のサルベージのさいに朽ち果てた海軍刀とともに、「興亜一心」の存銘刀が海底から引き上げられました。
ところが、他の刀は形をとどめぬのに「興亜一心」作一本だけは錆びずに発見された。海の底に半世紀近く沈んでいたのに・・・
そこで研究してみたところ、理由としてクロームとニッケルが含有されたためではないかと推定された。
長期間海底にあって錆びなかったのも凄いが、調べてみると「興亜一心」は刀としても非常に優れていたらしいので
これこそ究極の日本刀だったのではないかと思います。
図書館で借りた本1(4冊) 記2012/01/03
ある事情から図書館を利用するようになりました。今までは高い本でも自分で買っていましたが、
リクエストを出すと本を購入してくれるようなので値段が高い本などこれからは図書館で買ってもらおうと思ってます。
同じ本をまた借りてきてしまう恐れもあるので備忘録代わりに感想を書く事にしました。
やっぱり勝てない?太平洋戦争 並木書房 潟Vミュレーションジャーナル
日本軍というのは過大評価されたり過小評価されたりで良くわからない部分があります。
この本は日本海軍がそれほど強くは無かったということを検証した本です。
ミッドウエー海戦でのタイムスケジュール表と索敵経路図、装甲と装甲貫通力のグラフは勉強になりました。
確かに日本海軍は過大評価されている部分もあるが、この本を読んでも日本の方が強いんじゃないかと思います。
一番の問題は日本の作戦がことごとく相手に知られていた事。珊瑚海海戦、ミッドウエー海戦、インド洋海戦などいつも相手に待ち伏せされていました。
敵が確実にいると判っている状況のアメリカ軍といるかいないか判らない状況の日本軍では全然心構えが違ってきます。
たとえばミッドウエーでは作戦が察知されていなければヨークタウンは珊瑚海海戦での損傷であんなに急いで修理して出てこなかったろうし
ミッドウエー空襲で第二次攻撃の必要もなかったろうし、うまくすればダッチハーバーの牽制攻撃でうまく敵を混乱させられていただろう。
「太平洋戦争」こう戦えば・・・「If」の太平洋戦争史 WAC 三野正洋
主に戦術的な事が書かれています。真珠湾を再攻撃していたらとか第一次ソロモン海戦で敵輸送船団を攻撃していたらなど。
結論としては大勢にあまり影響が無かったろうということです。特に目新しい点は無かったです。
太平洋戦争の研究 こうすれば日本は勝っていた PHP研究所 ピーター・G・ツォーラス編著 左近充尚敏訳
日本が戦闘で勝つ様を外国人が描いためずらしい本です。
改めて思ったのですが、日本がいくら戦闘で勝とうともアメリカ本土に直接攻撃を加えられない限りやがて物量の差で敵に圧倒されて
勝つのは不可能だと思えるようになりました。日清日露のような限定戦争なら何とか勝てるけど、第一次大戦から変わった相手の国家を
完全に滅亡させるような総力戦になった時点で日本がいくら背伸びをしても勝つのは難しい。
終戦秘史 通化事件”関東軍の反乱”と参謀藤田実彦の最後 チクマ秀版社
松原一枝
通化事件についてはあまり世に知られていないと思います。終戦後満州で日本人が大勢殺された悲惨な事件です。
詳しくは知らないので図書館で見つけて借りてみました。
概略としては終戦後に満州の通化というところで日本人が帰国を待って待機していたのですが、中共軍の待遇があまりにもひどく
日本人の間で不満が高まっていました。丁度中国では内戦状態だったので国民党軍も勢力を伸ばそうと近くまで来ていました。
国民党軍の方も日本人を利用して中共軍を追い出そうと工作していたので日本人側でも国民党軍に来てもらったほうが待遇が
改善されると思い協力する者が現れ始めました。そこで中共軍に捕まっていた第125師団の参謀長だった藤田実彦という人物が
大変人望があったので担ぎ上げて反乱を起こそうと画策して実行に移したのですが事前に敵にばれていてまともに戦う前に掃討され
報復として大勢の日本人が殺されました。
文中にも出ていましたが首謀者と目された藤田実彦は西南戦争の西郷さんと同じで自分の知らないところで勝手に計画されて実行されたものですので
遺族などに恨まれて非常に可哀想なひとです。この本によって名誉が回復されたのはよかったです。
この本にもありますが、歴史の真実が知りたいものです。激動の時代に生き残った方は保身に走らず死んだ人たちの名誉も守ってあげて欲しいです。
この手の本を読んでいてよく出てくるのですが、またしても朝鮮人が一番酷い事をします。困ったものです
図書館で借りた本2(3冊) 記2012/01/15
太平洋に消えた勝機 光文社 佐藤晃
陸軍士官学校出身者の方で海軍を目の仇にしています。確かに海軍が不甲斐なくて補給が続かず陸軍が実力が発揮できなかった面もあります。
一番問題なのが、陸海軍の意思が統一されてなく、しかも海軍内部でも軍令部と連合艦隊が対立していて勝手に戦線が拡大するし戦争の終わらせ方も長期不敗の態勢で敵を迎え撃つのか、
積極策でハワイまで攻め込んで敵艦隊を撃滅するのか、インド方面で作戦を行ってドイツ軍を支援するのか、考え方がまちまちでどうしようもありません。
他国では民主的なアメリカですら大統領が一切の権限を握って戦争を指導しています。
元々無謀な戦争だったとかアメリカと戦争する積もりは無かったとかいってもしょうがなく、天皇が直接指揮が出来ない以上、政府と陸海軍が一体となって戦争を指導できる組織がどうしても
必要だったと思います。
興味深いのは、日本がもしもインド洋を制圧していたらアフリカのイギリス軍や南部のソ連軍は支援を絶たれてドイツ軍がかなり有利な立場になったろうと予想しています。
日本にとっても援蒋ルートを完全に遮断できるので支那方面で攻勢に出れば中国を打倒出来たか有利な条件で停戦できた可能性もあります。
この作戦を西亜作戦というのだそうです。
日本が独力でアメリカ軍を打倒するのが無理な以上、ドイツ支援作戦を積極的に進めて世界情勢の好転を待つしか日本が勝つ方策は無かったと思います。
その時、艦隊はどう動いたか ミッドウェー海戦 「運命の5分間の真実」 新人物往来社 左近充尚敏
詳細なタイムテーブルが載ってるのでミッドウェー海戦の研究をするなら是非活用したいところです。
特に、日本はともかくアメリカ軍の動きが細かく載っているのはめずらしいので重宝します。
海軍零戦隊撃墜戦記1 昭和18年2月-7月、ガダルカナル撤退とポ−トダーウィンでの勝利 大日本絵画 梅本弘
ビルマの本も持ってますが、連合軍の損害と照らし合わせるという面倒な作業を地道に行ってるのが凄いです。
思ったよりお互いに落とされた飛行機は少なく、敵機を落とすのはなかなか大変な事なんだと改めて思いました。
結果的には殆ど引き分けか若干零戦のほうが強かった程度ですが、この時期でも零戦が十分通用するのが判ったのと
アメリカ軍の機体の頑丈さを考えるとよくこれだけ落としたものだと感心します。
図書館で借りた本3(2冊) 記2012/02/07
日本人の戦略的失敗 戦史に学ぶ教訓 北岡俊明+戦史研究会 PHP研究所
戦史研究の部分を期待して借りたが、ハワイを徹底的に叩くべきだったとかガダルカナルの兵力逐次投入など
散々語りつくされた事が多く特に目新しいものは無かった。
南進論と北進論の対立で日本が北進していればソ連に勝ってすべてがうまくいくような事が書かれているが具体的な事が書いていない。
学校教育に戦史研究が無いとか戦史、戦略の重要性と経営戦略について主張している。
大東亜戦争は勝てたでおなじみの小室直樹先生の言葉が出てきた。「勝者敗因を秘め、敗者勝因を蔵す」いい言葉だと思います。
日本軍も緒戦で勝っている時、特にインド洋作戦では兵装転換のごたごたや幸い命中しなかったがイギリス軍の奇襲爆撃を許していたので
おごらずにもしかしたらやられていたかもしれなかったところを研究するべきだったと思います。そうすれば、ミッドウェー海戦で負けること無かったはず。
仕掛けられた大東亜戦争 ABCDラインの陰謀 清水惣七 新人物往来社
明治維新から大東亜戦争に至るまでの日本と世界の歴史が書かれています。
日華陸軍共同防敵軍事協定(P80)なるものがあった事を初めて知った。政権がころころ変わるし条約を守らない中国なのであまり意味が無かったかもしれないが。
シベリア出兵時、共同出兵を持ちかけてきたアメリカ軍が冬が来てパルチザンの活動が激しくなった時、事前通告も無く勝手に撤兵(P85)。
これは酷いと思いますが、その結果アメリカが口出しできなくなってシベリアで日本が好き放題できる事になってしまった。
共産主義の恐ろしさを考えると何とかしたかったのだろうけど、何の戦略も持たずシベリアに留まったのは失敗だった。
本題のABCDラインの陰謀はP303辺りから。米英が中国に大量の軍需物資を送り込んでるせいですぐに片付くはずだった支那事変は長期化し
援蒋ルートを遮断するため日本が戦線を拡大すると益々米英が強硬な態度に出て禁輸政策により物資が欠乏する。そこで日本が生き残るために
蘭印や仏印と交渉するがことごとくアメリカの妨害が入りABCDラインが完成。最初から日本を潰す気満々としか思えないアメリカの策謀。
軍医戦記 生と死のニューギニア戦 柳沢玄一郎 光人社NF文庫 記2012/02/07
独立工兵第15連隊の軍医さんの話です。軍医なのに実際に部隊を指揮したり作戦の経過をよく把握しておりえらいものです。
作戦地図がよく出来ており文中にでてくる地名がちゃんと載っているのでありがたい。他の本だと地図に大まかな地名しかなくて状況が判りにくい事が多い。
気になったところはP169のギルワから転進してラエで部隊長会議が開かれていたところ敵の爆撃があり、同時にビラがまかれた。書かれていたのは
「ギルワ陣地の生存者全部をブナ飛行場に連れてゆき、戦車で轢き殺した。お前たちもそうなる。もし、そのような目にあいたくないなら降服せよ」
これこそ戦争犯罪なのに連合国軍が裁かれることはありません。この本はかなりの良書でした。
図書館で借りた本4(3冊) 記2012/02/23
帝国海軍が日本を破滅させた(上) 日清・日露から真珠湾攻撃まで 佐藤晃 光文社
前回借りた、「太平洋に消えた勝機」がなかなか面白かったので続編を借りてきました。海軍憎しの部分は割り引いて考えなければいけませんが
今まで無かった視点で勉強になります。日清戦争が終わってから陸海軍の対立が顕著となり統帥が分裂してしまい統合された組織も作られませんでした。
「二人の優秀な指揮官より、一人の凡庸な指揮官のほうが、よほど有益である」という言葉がありますが、これでは戦争に勝つのは難しい。奇跡的に日露戦争は勝ちましたが・・・
ともかくこの弊害で旅順は海軍の縄張りだから陸軍は手を出さないで欲しいといいながら、旅順港閉塞作戦の失敗やバルチック艦隊回航の情報が入ると急に陸軍に旅順攻略を
要請してくる。しかも急いでやれというので状況把握もしないで総攻撃を行い大損害を受ける。バルチック艦隊がそんなにすぐに来るはずも無いのに海軍の情報収集能力はお粗末過ぎる。
その後の攻撃で「南山波山」という場所を占領。旅順港の大部分が見えるとの事で28センチ榴弾砲で敵艦隊を砲撃、殆どの艦艇に損害を与えるがわずかな死角に逃げられる。
しかし、この時点で旅順艦隊はほぼ壊滅していたらしい。結果論になるが、203高地の攻略ものちの総攻撃も必要なかったかもしれない。
第二次大戦中にソ連が米国から入手した兵器器材の一覧が載っていた。戦車7056台、飛行機1万4834機、艦艇(軽巡以下)500隻、商船95隻、高射砲8218門、トラック38万5883台
ジープ5万1503台、トラクター5071台、機関車1981両、貨物車1万1157両、食料404万7000トン、石油製品267万トン、軍靴1541万7000足、ラジオセット1万6000組。
これをソ連に運び込むルートは、インド洋を通ってイランのペルシャ湾で陸揚げしてから陸路ソ連に運び込む「イランルート」、北太平洋から北極海に面したムルマンスクに至る
「ムルマンスクルート」、ソ連国旗を掲げた米国船による「ウラジオストックルート」の3つであった。このうちインド洋→イランルートで運び込んだものが70%を占めた。
太平洋戦争開戦前、中国国民党政権の首都・重慶への補給路「援蒋ルート」は3つあった。@仏印ルート Aビルマルート B南支那ルート(香港など南中国経由)
このうち、@は主にガソリン、鉄材、トラック及び弾薬など毎月1万1000トンAは武器弾薬、火薬、工作機械など毎月4000トン、Bも同様な物資を毎月9000トンであり、補給物資の合計は
毎月2万4000トンに上っていた。この「援蒋ルート」を遮断しない限り日本の勝利は無い。
日本が開戦前に考えた戦争を終わらせる方法「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の方針では、
《速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携してまず英の屈服を図り米の戦意を喪失せしむるに勉む》
となっており(なにげに簡潔で判りやすいと思う)、その腹案の概述は以下の通り。
第一段作戦
極東に於ける米英蘭拠点を覆滅(初期侵攻作戦・別名南方作戦)して、日・満・支・南方資源地帯を基盤とする自存自衛態勢の確立を図る。
第二段作戦
@蒋政権の屈服作戦−対支大作戦
連合国からの援蒋ルート(補給路)のすべてを遮断されて、武器・軍需資財の補給を絶たれて重慶(蒋政権)に対し、政治的(和平)・軍事的(進攻)措置により、
その屈服を図り支那にある戦力(俗に100万人という)運用の自由を確保する。
A独伊とインド洋で提携する英国屈服作戦−西亜作戦
インド洋を制圧して日独伊の連絡連携を図ると共に、連合国の輸送大動脈を遮断して英国を軍事的経済的に追い詰めてその屈服を図る。
ソ連は日本の交戦国ではないが、インド洋制圧はソ連に対する米国の武器輸送を阻止してドイツを支援する事も可能である。
B対米作戦正面
わが近海に強固な防壁を築いて、昭和18年(1943年)後半以降と推測される米国の対日反攻作戦に備える。米国は両洋艦隊法の結果が出る1943年後半までは
対日反攻は作戦は不可能であるから、その1年半の間に英国と重慶を片付けておこうということである。
他力本願的な面はあるが、案外しっかりした作戦方針だと思う。しかし海軍の暴走によってこの方針通り作戦が行われる事は無かった。
日本の作戦方針どおり西亜作戦をやっていたら大東亜戦争に勝てたのだろうかと最近思うようになった。
帝国海軍が日本を破滅させた(下) ミッドウェーから太平洋戦争敗戦まで 佐藤晃 光文社
このシリーズは単なる海軍憎しの本と侮っていたが、考えが変わるほどの衝撃的な本でした。
著者自身も結論が出た後の「下衆の後知恵」と言っていますが、自分も昔は手探りで状況が判らない当時の指導者の決断を何でも判ってる後世の人間が
偉そうに批判してるのを見ると大人気無いと思っていました。元々無謀な戦いなのでどうやっても勝てないだろうし、みんなよく戦ったからもういいじゃないかと思っていました。
でも、この本を読んでいると海軍の誇大戦果報告にうんざりしてきます。確かに命からがら多大な犠牲を払ってボロボロになって還ってきた搭乗員の報告を無下にはできないと
思いますが、これを鵜呑みにして作戦指導をするのはとんでもない。しかも、面子などにこだわって実際は幻の戦果だとわかっても作戦を改めない。
とくに台湾沖航空戦の幻の戦果に踊らされてわざわざ不利なレイテ決戦を行って兵力をすり潰したのは酷い。
それと、無敵連合艦隊や精強無比の海軍航空隊のキャッチフレーズで敵が出てきても大丈夫と太平洋方面の戦況に疎い陸軍を騙して絶対国防圏外まで
兵力を散りばめて玉砕したり遊兵どころか食料の補給に四苦八苦するありさま。
硫黄島の戦いでは当然海軍陸戦隊も陸軍の指揮下に入っていたものと思われたが、いくら統帥権の独立があるとはいえ協力関係にはあったが
別行動を取っていたとは思いませんでした。栗林中将は電文でこんなことを報告している。
《五、海軍の兵員は陸軍の過半数なりしも其の陸上戦闘能力は全く信頼に足たらざりしを以て(海軍)陸戦隊の如きは解体の上陸軍兵力に振り向くるを可とす。
尚本島に対し海軍の投入せし物質は陸軍よりはるかに多量なりしも之が戦力化は極めて不十分なりしのみならず戦闘上有害の施設実施する傾向なりしに
鑑み陸軍に於て干渉指導の要あり。之が為陸海軍の縄張的主義を一掃し両者を一元的ならしむるを根本問題とする》
大東亜戦争とスターリンの陰謀 −戦争と共産主義− 三田村武夫 自由社
この本を読んでると今もだが、昔も共産主義者が多かったんだなあと思いました。(P76)
私事ですが、通勤電車で乗る駅に毎週金曜日に共産党の人が赤旗新聞の宣伝やビラ配りをしていて迷惑。
いくらきれいごと言ってても共産主義の行き着く先を思うととても応援できません。
近衛が朝飯会で共産党スパイの尾崎秀実に操られていたのは有名ですが、実態は良く判りませんでした。
この本によると、尾崎一派はコミンテルンの指令にある、
(1) 自国政府の敗北を助成すること。
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
に基づいて行動していたものと思われます。日本など一部の大国は尋常な手段では共産主義革命は起こせないことを悟り帝国主義国家相互間の戦争を引き起こし
その敗北により革命を起こそうと画策していた。
実際、支那事変では日支和平を妨害し、「国民政府を相手とせず」の近衛声明を発表させ汪兆銘政権誕生に加担し完全に支那との関係が
修復不可能な状態になり長期化してしまいました。その後も、日本を全体主義化させるような論陣を展開してる。
別の意味で右派も同じよう事を考えているため簡単に誘導されてしまう。
他に気になったのが、検挙した共産党関係者を天皇制否定の主張を訂正したのみで転向者とみなし特高などが熱心に就職の斡旋をしていること。
驚いた事に官庁はおろか軍の研究機関などにも多数転向者が就職している。(P136)
それが田中隆吉氏の意見として紹介されている転向右翼(偽装転向)の存在として猛威をふるったものと思う。(P47)
まだ、もやもやした感じはするがはっきりさせるのは今となっては難しい。結局のところ近衛の言うとおり目に見えない力で操られていたというのが本当のところだろう。
戦前、戦時中景気のいい事を言っていた人たちが、戦後ああも豹変した事を思うと日和見というより転向した共産主義者だったんじゃないかと思うと納得がいく。
図書館で借りた本5(2冊) 記2012/03/07
白い人が仕掛けた黒い罠 アジアを解放した日本は偉かった 高山正之 WAC
タイトルから予測できると思いますが、戦前の白人の行動を批判した本です。
東南アジアの植民地で王様のように振舞っていた白人を大東亜戦争によって打ちのめしたのは本当に痛快なことだと思います。
しかし、白人の優越主義を完全に打破したものと思っていましたが、未だに白人の顔色を伺っている国々があるのは残念です。
インパール作戦 ビルマ方面軍第15軍敗因の真相 大田嘉弘 ジャパンミリタリーレビュー
リクエストしたらわざわざ埼玉の図書館から取り寄せてくれました。
500ページ以上あり、ページの端の方まで文字がびっしり書かれていて非常に労作です。
値段ばかり高くて内容の薄い本がありますが、これは値段分の価値があると思います。
最近、旧軍を再評価する動きがあって喜ばしいことです。ノモンハン事件では実はソ連軍のほうが
損害が大きかったというのは良く知られるようになってきた事と思います。この本もそんな感じで散々無謀と言われてきた
インパール作戦が実はそれほど無謀ではなく、実は勝てたのではないかと肯定的に書かれた本です。
気になった部分を順にあげていくと
ベンガル飢饉(P34)
昭和18年から19年にかけてインドのベンガル地方で350万人もの餓死者が出ている。
航空優勢(P83)
昭和19年2月頃まで日本が制空権を保持していた。インパール作戦が始まる3月には完全に敵に制空権を奪われる。
第15師団のビルマ進出の控制(P92)
南方軍の稲田副長がインパール作戦に反対である為に第15師団のビルマ進出を故意に遅らせる。
インパール作戦の開始が遅れた最大の原因であり、第15師団の戦力が完全に整う前に作戦が行われた。
本当はもっと早く作戦を行う予定であり、早く作戦が行われていたら雨季が来るまでの時間があり制空権も完全に敵に取られておらず
ウインゲート空挺団による混乱も無く敵の戦力ももっと弱かったと思われ成功する可能性がかなり上がっていた。(なるべく早いほうが良い)
ウインゲート兵団の北ビルマ侵攻(P122)
インパール作戦開始直前、3月5日に襲来する。
過大評価されているが、インパール作戦には直接的な影響は無かった。
影響があったのは北ビルマで戦っていた第18師団の補給が脅かされていたのと第5飛行師団とビルマ方面軍の予備兵力が吸引された。
糧は敵による(P166)
意外と成功していたのには驚いた。確かに燃やされたり使い物にならなくされたものも多いだろうが。
特に第15師団と第31師団は山岳地帯で全くといっていいほど補給が無かったのにあそこまで持ちこたえたのは食料の鹵獲によるところが大きいだろう。
インド第17師団の撤退(P180)
第33師団(弓)によって完全に包囲に成功していたが、敵の死に物狂いの抵抗により開囲し脱出させてしまう。
その後の追撃も無く、統制前進によりインパールを固められてしまう。
サンジャック(P201)ゼッサミ(232)の道草
第31師団(烈)の宮崎部隊(第58連隊)がサンジャックで、第138連隊がゼッサミでそれぞれ敵に深追いして
時間をとられてコヒマに突進するのが遅れて敵に固められてしまう。
どちらかが深追いせずコヒマに突進していれば簡単に落とせていたと思われる。
佐藤師団司令部爆撃中止(P275、278)
英軍が第31師団司令部の場所を突き止めたので爆撃しようとしたら止められた話
最も頼りになる将軍の一人として考えられ、利口なものが佐藤の代わりに来られたら困るとの由
第33師団の統制前進(P298)
第33師団長の柳田中将は非常な秀才であるが、実戦向きではなかった。
「消極的な指揮官の情勢判断は常に的中する」意味深い言葉です。
自動車の操縦及び整備要員の教育(P333)
自動車を分捕った時のための教育をしっかり行っていたとは流石と思った。
約1ヶ月の教育で歩兵連隊の3分の1の兵員が運転できるようになった。
トンザンで自動車1200両を目撃しその内800両を取った。
整備を完了した数はジープ70〜80両、3/4dトラック60両、大型トラック約100両。
第31師団司令部周辺(チャカバマ)の食糧事情の実態(P414)及び抗命、無断撤退
前線部隊では敵の食料を奪ってある程度食いつなぐことが出来た。5月末まで大きな不安は無かった。
後方にいた第31師団の師団長周辺が最も食料が少ない状況となっていた。
このことが食料の不足を過大評価し無断撤退の原因となったと思われる。
撤退も酷い有様で退却中第15師団のわずかな食料まで強奪する部隊も現れるなど完全に軍規が崩壊しており、守備命令を出しても勝手に下がり戦力とならなくなった。
皇軍にあるまじき様相であるが、同師団の一部第58連隊などは宮崎部隊として軍直轄となりコヒマに残ってよく戦っている。
インパール作戦中止問題(P429)
元々ビルマ防衛目的の攻勢防御的な作戦であったので、成功の望みが無くなった早い時期、余力のある内に守勢に転じていればまだ良かった。
状況としては
3月作戦開始
快進撃
4月雲行きが怪しいが何とかなるかもしれない
5月完全に悪戦苦闘、食料ギリギリ
6月食料欠乏、戦線崩壊ぎみ
6月6日の第15軍司令官牟田口中将とビルマ方面軍河辺中将の会見(P447)
少し遅いがこの時に作戦を中止するべきであった。二人とも見込みが無いことを判っていながら口に出す事は無かった。
作戦が中止されたのは7月に入ってから。完全に遅すぎる。早く決断できれば4月(元々3週間の作戦予定)、少なくとも5月、最低でも上記6月の会見の時だろう。
あとがきに(P540)
作戦間の日英両軍の損害は、「陸戦史集」によれば、日本軍三個師団の死傷者は、3万6253名である。
これに対し英印軍第14軍の損害を死者1万5000名、傷者2万5000名といっている。
結論として、ディマプールに突進していれば作戦は成功していたという意見もあるが実際はどこかで相手が踏みとどまって結局史実のようになっていたと思う。
相手の物量と航空兵力は圧倒的過ぎる。しかし、相手もかなり苦しかったことがわかり負けた日本軍と同じぐらい損害出しているのは意外であった。
勝てるとすれば、ディマプールに突進した時に相手が勝手に戦意を消失して総撤退してくれるのを期待するしかない。
逃げてくれなければ圧倒的に敵のほうが戦力が大きいので結局はどこまで攻めても反撃を受けて負ける。
図書館で借りた本6(2冊) 記2012/03/27
太平洋戦争期の海上交通保護問題の研究 -日本海軍の対応を中心に- 坂口太助 芙蓉書房出版
日本海軍の海上護衛軽視を弁護するような感じの本でした。結果から見ると軽視に見えるがそれなりに理由があった事がわかる。
日本が当初海上護衛の専門部隊が存在しなかったのは各鎮守府が護衛を担当する事になっていた為であり長期戦は想定しておらず、石油などは人造石油や備蓄で賄うことになっており、
中国大陸、台湾、朝鮮半島の連絡線確保に重点を置き、本土周辺海域のみの海上交通保護に専念し、駆潜艇などの小艦艇のみを整備していた。
戦争が始まってからは、南方航路は、西方はアジア大陸に遮断され、東方は沖縄、台湾、フィリピン、蘭印の諸島によって囲まれているため、各地には小艦艇用の基地に適した港湾があり、
哨戒飛行機用の飛行場もいたるところにある。したがって対潜水艦防御には、有利な地勢である。だから、船舶被害極限の望みがあると判断していた。これを間接護衛。
前線は、艦隊による直接護衛を行う事としていた。実際の戦闘でも、民需用のC船(後方、潜水艦による被害)は戦前の予測どおりの被害しか受けておらなかった。
しかし、ガ島戦が始まると陸海軍徴用のAB船の被害が激増するが、これは前線での航空機による消耗で海上護衛とは直接関係無いと認識されていた。だが、AB船補充の為、C船が充当されて
船舶が不足するため戦標船の量産に拍車が掛かるが、まだ航続力のある海防艦の量産は開始されていない。ある程度は、旧式の駆逐艦が充当される予定でいた。
ガ島戦後は、守勢に回り前線でのAB船の損害も減り、C船も想定どおりの被害しか受けていなかったが、43年夏頃から潜水艦による被害が増えだし9月には20万t以上の損害を出し海上護衛
総司令部設置の動きが始まり、11月に海上護衛総司令部が設置される。このころから、空母の大量建造が中止となり海防艦の量産に拍車が掛かる。
その後、海上護衛総司令部が連合艦隊に編入されるがこれは前線が崩壊したため後方も前線も無くなったため、指揮を一元化するため必要な処置だったと思われる。
他に気になった事。1936年ごろソ連の潜水艦が極東各地に86隻も配備されていると想定されていた。これはかなりの脅威。(P60)
銑鉄・・・原料となる鉄鉱石を「高炉」内で一旦融解し、不純物を取り除き作られたものが「銑鉄」
鋼・・・銑鉄にはまだ多くの不純物を含んでおり、さらに不純物を取り除いたものが「鋼」。「平炉」内に銑鉄を屑鉄(または鉄鉱石)と一緒に入れて加熱すると、銑鉄から不純物が取り除かれて「鋼」となる
鉄鉱石自給問題・・・1933年時点で、内地7%、朝鮮13%、満州30%、マレー31%、支那19%。満州や朝鮮は貧鉱でマレーや支那は富鉱のため輸入が多いが、有事の際は品質、採算の面で十分開発され
ていない満州や朝鮮の鉄鉱石を活用すれば自給は一応可能との結論が出る。(P136)
石油還送実績・・・戦争1年目は148.9万、2年目は264.6万キロリットル。内地に運ばれず直接前線に運ばれたものや現地消費したものが他にある。(P209)
ニューギニア南海支隊 モレスビーの灯 三根生久大 光人社
陸路、ポートモレスビー攻略を目指した南海支隊のお話。個人的な見解だが、日本軍の宿命(常に敵より兵力や物量が劣る)とはいえ高級指揮官たちは兵隊たちに
無茶な要求をしすぎた思う。日本軍が強かったのは作戦の妙というより、無謀な命令も黙々と実行して非常な努力によって敢闘した下級指揮官や兵隊たちによるところが大きい。
ポートモレスビーの陸路攻略も補給が困難なオーエンスタンレー山脈を超えるという殆ど無謀(敵が進出してきているから全く無謀でもないかもしれないがしっかりした補給計画が必要)
な作戦であった。しかし、例によって兵隊たちの頑張りによってついにモレスビーの灯りが見えるイオリバイワまで進出したところ、折り悪くガダルカナルの戦況が悪化して
ポートモレスビー攻略作戦は中止となり涙を呑んで撤退する事となる。こんな中途半端な作戦で犠牲になった兵隊たちは本当に可哀想です。
元々はリ号研究という事で陸路攻略が可能か調査してから可否を判断する予定であったが、大本営参謀辻政信中佐が現地視察に来た折独断で研究ではなく作戦として実行されてしまった。
辻中佐は後方でふんぞり返って偉そうな事を言う参謀ではなく自ら前線に出てくる点は立派だが、勝手な事を言って作戦をかき乱すくせがあるので迷惑な存在ではある。
撤退してからは敵の追撃を受け多くの犠牲を出すが、敵にもかなりの損害を与えている。ギルワでは独立工兵第15連隊長の横山大佐が強固な陣地を築城して敵を支え、第47高射砲大隊が
敵機71機を撃墜し、敵に「飛行機の墓場」と言われるほど奮戦するが弾薬が無くなってしまってはどうにもならない。
図書館で借りた本7(1冊) 記2012/04/16
ナポレオン戦争全史 松村劭 原書房
何故か最近ナポレオンにはまってしまい色々調べるようになりました。特に当時の戦術で戦列歩兵というのがあります。
敵の目の前まで一列に並んだ密集隊形で歩いていってマスケット銃で撃ち合うというものです。第二次大戦ものしか興味や知識が無かったので
何でこんな馬鹿なことしてたんだと非常に興味が湧きました。これこそ、最高の勇気が必要だったんじゃないかと思います。
それに、当時の軍服が非常に派手でかっこよかったり、ナポレオンの元帥たちの活躍など華やかです。
ニコニコ動画で「ワーテルロー」という映画がアップされていました。画質が悪いのが残念ですが、当時の状況がよくわかって勉強になります。
ナポレオンの頃のフランスは丁度革命が起きていて、共和制国家が出来ました。自分たちの国に波及するのを恐れて脅威を感じたヨーロッパ諸国(はほとんど君主制)
はフランスを目の敵にして対仏大同盟などを結んだりしてフランスに敵対します。そんな時にナポレオンが登場し孤軍奮闘、多国を相手に良く戦って一時はヨーロッパ全土を
手中に収めます。しかし、ナポレオン自身の野心や外交のまずさで結局没落する事になりますが稀代の英雄でした。
一人の天才が活躍できたのはナポレオンの時代が最後でしょう。後にドイツで参謀本部というものが出来て各国に伝わり天才がいなくても強い軍隊が作られるようになりました。
本題の書評ですが、タイトルの通りナポレオンの戦争全体を知るのは便利ですが、個々の戦闘の内容が非常に薄いです。
殆ど知識が無い自分みたいな初心者にはいいかもしれないが、値段が少し高いので買うほどでもないし図書館で借りるのがいいと思います。
悲劇の輸送船 言語道断の戦時輸送の実態 大内建二 光人社NF文庫 記2012/06/14
大内氏の商船シリーズです。毎回、歴史に埋もれている戦史を掘り起こしてくれるので感心します。
今回気になったのが、機帆船の戦い。輸送船がどんどん沈められていく中、当時5000隻程あった50〜250トンの機帆船に目が当てられ徴用されました。
小型の船にもかかわらず、南方などにも派遣されています。失われた機帆船は3000隻とも4000隻ともいわれるが、被害の実態は不明のようです。
太平洋戦争中に撃沈された100総トン以上の日本の商船の総数は2568隻、838万総トン。
軍隊輸送中に撃沈され、犠牲になった将兵は9万5500名。
太平洋戦争で犠牲になった陸海軍将兵の総数はおよそ186万5000名とされる。
輸送船の撃沈で犠牲になった一般民間人や軍属は合計4万8800名、各種輸送船の乗組員およそ3万1000名が失われている。
ボーキサイトについて・・・
1942年から1945年までに日本で生産された軍用機の総生産量は約5万5000機で、機体の大きさによって異なるが、アルミの平均使用量を1機当たり2.6トンと
仮定すると、必要なアルミの量は14万3000トンと試算される。1トンのアルミを抽出するのにボーキサイト鉱石の量を20トンと仮定すると、必要なボーキサイト鉱石の量は約286万トンとなる。
これだけの量が南方から日本に還送されたことになる。
石油について・・・
戦争勃発前に軍部が試算した石油の消費量は1942年で556万キロリットル、1943年で同じ556万キロリットル、1944年で668万キロリットルとしている。
1941年当時、日本が備蓄していた石油は683万キロリットル。南方石油資源の獲得で生産設備が破壊され、修復する事を予想して1942年は備蓄の中から476万キロリットル
1943年は備蓄の残り207万キロリットルを消費する予定となっていた。
実際には、石油産出施設の破壊が思ったより少なく、石油技術者の努力もありスマトラとボルネオの石油産出量は年間500万キロリットルが可能となっている。
南方から日本へ還送した石油の総量は、1942年が167万キロリットル、1943年が231万キロリットル、1944年が79万キロリットル、1945年が17万キロリットル。
図書館で借りた本8(2冊) 記2012/06/30
陸軍師団総覧 近現代史編纂会・編 新人物往来社
陸軍の師団について詳しく書かれた本です。殆どの師団の戦歴が網羅されています。
師団といっても色々特色があり、中でも驚いたのが第12師団です。通常の師団は野砲兵連隊か山砲兵連隊が1個あるだけなのに
この師団は野砲兵連隊と山砲兵連隊両方持っている上に野戦重砲兵連隊2個、重砲兵連隊3個を持っています。
更に通常師団には無い高射砲連隊1個と戦車連隊1個を持っています。戦争中に少しずつ引き抜かれていき最終的には通常の
師団と同じ兵力となってしまいました。ある意味、日本軍の最強師団ではなかったかと思われます。
それと、貴重な師団の編成表がいくつか載っています。師団の人員から馬の数、装備している大砲の数が細かく載っています。
戦史叢書99 陸軍軍戦備 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社
図書館に戦史叢書全102巻揃っているのでいくつか借りようと思います。
個人的に気になった巻を数冊購入していましたが、中々お目に掛かれない物や値段が高くなっているものなどがあり半分諦めていたのですが
これからはいつでも借りて読めるのでありがたいことです。本当は全巻買って家に取り揃えておきたいのですが、置き場が無いし買う金も無い。
この、「陸軍軍戦備」も中々珍しい本の一冊だと思います。陸軍の兵力が増強されていく様子が良くわかりますが、思ってたのとは違って師団とか
部隊単位なので、もっと細かい兵器関係とか戦訓によって編成や装備が変ったりした様子が判らないのが残念でした。
でも、所々目を引くようなデータが載っています。陸軍編成表や戦域別の師団配置数はもちろん、開戦時に保有していた軍事物資の保有量や
資源の量、動員兵力と動員可能兵力や人口調査など貴重なデータが載っていました。
時系列順に行った政策とか出来事が細かく載っており、こうやって眺めてみると陸軍も戦争に勝つためにあらゆる努力をして布石を打っていたん
だなぁと感心します。
一つ気になったのが、戦車の整備量。陸軍は航空機の整備を最優先しており昭和17年度は戦車1550両だったのが、18年度の整備量は
730両と半分以下に減らされています。他にも地上武器や同弾薬や自動車などが減らされています。
日本の国力は昭和14年がピークと言われていますが、何かを犠牲にしないと生産量を増やせない程国力が疲弊していたのかと思うと悲しいです。
図書館で借りた本9(2冊) 記2012/07/12
戦史叢書102 陸海軍年表 付兵語・用語の解説 防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社
年表には昭和12年から終戦までの出来事がびっしり書かれています。
特に凄いのが、一つ一つの出来事に戦史叢書の何巻の何ページに記載されているか判るようになっていることです。
手元に全巻あったら物凄く便利ですが、とりあえず戦争の全体の流れを把握するのにいいです。
用語の解説もありますが、戦史本を読み漁ってる身としては特に目新しいものはありませんが、正確な用語を知りたい場合はいいと思います。
軍隊符号表もありました。国際標準と違うけど、昔の戦況地図を見るのに便利だし旧軍好きとしては覚えて活用したいところです。
ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相 古是三春 産経新聞出版
結果的にソ連側の主張する国境線が通ったし、日本軍も大損害を受けたのでソ連のプロパガンダや左翼の宣伝もあって
日本が一方的に大敗したように言われてきました。しかし、ソ連の崩壊により隠されていた資料が少しずつ出てくるようになりました。
その資料によると、ソ連軍の投入兵力は69101名、人的損失は23926名で内訳は戦死6831名、戦傷15251名行方不明1143名、戦病701名。
日本側の人的損失は20801名で内訳は戦死8716名、戦傷8714名行方不明1021名、戦病2350名。ソ連軍のほうが損失が大きいことになります。
この当時のソ連のBT戦車や装甲車は装甲が10〜13mmと薄く日本の89式中戦車の57mm短戦車砲や野砲や速射砲などほとんどの火砲で
撃破可能でしたのでかなりの敵車両を撃破しています。
あまりに多く打ち倒したので多数の炎上した戦車からの煙を見てまるで八幡製鉄所のようだったという証言があります。
この本は副題の通り、戦車戦にスポットが当てられており、日本戦車隊の錬度の高さに驚かされます。
何といっても、ハルハ河の西岸(ソ連側)が東岸(日本側)より50mも高地となっており敵側から丸見えで、その内の高台(コマツ高地)に重砲陣地があり
絶えず射すくめられるという不利な状況だったのは致命的でした。
終戦間際のギリギリまでソ連軍が満州に侵攻してこなかったので、これだけを見ても日本軍が如何に善戦して恐れられていたかがわかると思います。
日中戦争はドイツが仕組んだ―上海戦とドイツ軍事顧問団のナゾ 阿羅
健一 小学館 記2013/01/15
日中戦争が始まる前からドイツの軍事顧問団が中国に来ていて支那事変が起きた当初、それまでの弱い中国軍と違って日本軍に大きな犠牲者が
でたのは有名な話ですが、どうやらこのドイツ軍事顧問団は単なる軍事指導のみではなく蒋介石に戦略的助言を与えていたらしい。日本を敵とするように・・・
ヴェッツェル中将までは戦術的なことにしか関わっていなかったが、後に中国に来たゼークトやファルケンハウゼンなどは戦争指導まで関わりたびたび日本を
攻撃するように進言している。さらに貿易も盛んになりドイツからは兵器を中国からは資源を提供している。
盧溝橋事件がおきるとドイツから中国に送られる軍需物資や軍事顧問団の存在が日本にとっては当然問題となってきた。
ドイツは中国に兵器を売って多額の利益を得ていたので日本の抗議も受け流していたが、ヒトラーが対日重視政策を取るようになるとようやく昭和13年7月に
軍事顧問団を本国に引き上げさせた。
その間に起こった第二次上海事変ではわずか3ヶ月の戦闘で日本軍は、戦死者10076人、戦傷者31866人、合計41942人という夥しい損害がでている。
この本では、上海戦の模様がかなりページを割いて詳しく載っています。本を読んだ後、表紙の石像群の写真を見ると感慨深いものがあります。
絶品!海軍グルメ物語 すぐに作れる40のレシピ 平間洋一 高森直史 斉藤義朗
新人物文庫
記2013/02/09
美味しそうなレシピの紹介もありますが、食糧からみた軍事の歴史が詳しく載っています。
昔の日本は米と魚と野菜しか食べていなかったので、軍では体格向上のため洋食を取り入れパンや肉を食べるように指導していました。
しかし、思いの外反発が強く特に肉を食べることにかなり抵抗があったようです。
それと、日本軍を散々悩ませた脚気の話題もあります。今では原因はビタミンB1の欠乏によるものとわかっていますが、当時は原因がわからず
単に白米からパンや麦飯にすると脚気患者が減るということが判ったぐらいでした。
なので、特に陸軍では白米に対する憧れや人気もありパンや麦飯は不評だったので前線の兵士に白米を送り続けて、日清戦争では戦死者1270名に対して
3944名を脚気で失い、日露戦争では211600余名が脚気にかかり、27800余名を失っている。脚気にここまで悩まされていたとは驚きでした。
通信隊戦記
最前線の指揮統帥の道を造る 久保村正治 光人社NF文庫
記2013/02/23
通信隊につてはあまり詳しく知ることがなかったので勉強になりました。著者が所属していた軍通信隊とは軍司令部と師団司令部の間に有線及び無線による
通信系を構成し、通信を行うのが主な任務であり主に電信連隊がこれにあたる。師団と連隊の間は師団通信隊、連隊と大隊の間は連隊通信隊とそれぞれ
担当が異なる。軍通信隊は中隊単位で行動し、電信連隊は5ないし6個中隊で編成される。中隊の正規編成は有線3個小隊と無線1個小隊からなる。
有線には線路の構成方法によって軽構成と重構成の区分がある。軽構成は野戦用の作戦行動中の線路構成方法でありで重構成は半永久建築の固定通信
線路の構成方法である。軽構成には裸線構成と大被覆線構成の二種類がある。裸線構成は、70メートル間隔に電柱を建てて架線する。構成速度は時速3.5〜4km。
大被覆線構成は電柱を建てないで架線するので構成速度は時速5km。
有線小隊の編成
小隊−建築第1分隊(建柱分隊)
測定組7人、植柱組9人
−建築第2分隊(架線分隊)
留線組6人、張線組3人、延線組6人
−建築第3分隊(補修分隊)
−通信第1分隊
−通信第2分隊
無線小隊は2号乙無線機2個分隊、3号甲無線機1個分隊からなる。2号乙無線機は出力50ワットで発動発電機が付属している。
3号甲無線機は出力15ワットで手回し発電機が付いている。機材分隊は通信機材を輸送する自前の輜重兵。
単なる戦争体験記だけではなく、通信隊について詳しく解説してあってこの分野について知りたい方にはお勧めです。
尖閣を獲りに来る中国海軍の実力 自衛隊はいかに立ち向かうか
川村純彦 小学館新書
記2013/03/01
平和な世の中になって戦争はもう起こることはないだろうという思いと、ミサイル一発で片がつくような時代になってしまったし、自衛隊は日本軍独特の良さが失われて
アメリカナイズされた軍隊になってしまったので現代戦に興味は無かったのですが、最近中国が戦争を仕掛けてきそうな勢いで、無関心ではいられなくなってきたので
勉強のため本書を読むことにしました。
まず現状として、2011年現在で中国海軍の兵力が約26万人、海兵隊約1万人、主な装備は、駆逐艦13隻、フリゲート艦65隻、揚陸艦26隻、中型揚陸艦61隻、
ミサイル搭載パトロール艇102隻、原子力弾道ミサイル潜水艦3隻、攻撃型原子力潜水艦6隻、通常動力潜水艦62隻、各種作戦機351機などを保有している。
日本の海上自衛隊の隊員は4万5518名、装備は、通常動力型潜水艦16隻、護衛艦約50隻、航空機は哨戒機95機、哨戒ヘリコプター93機、掃海ヘリコプター11機、
電子戦機5機など約300機保有。
現状でも戦力にかなりの差があるのだが、技術力や練度の差を考えればまだ対処可能だろう。しかし、殆どフリーハンドで軍備増強する中国と足かせが多くて軍備を
増強しにくい日本の事情を考えるとこの先逆転される可能性もあるだろう。
尖閣問題だけを見ていると日本だけが特別狙われているようにも思えるが、中国は実は周辺国の殆どとイザコザを起こしていて南シナ海では実際に戦闘も発生している。
世界地図を見ればわかるが、中国は大陸国家であり海洋への道が閉ざされている。無理に海洋に出ようとすれば周辺諸国と衝突するのは当たり前だ。
何かと話題の中国の空母だが、本書を読む限り殆ど戦力にならないことがわかる。ざっとあげると、最低3隻はないと常時活動させられない、カタパルトが無いので高性能
の航空機は搭載できない、空母を運用する技術を取得するのにものすごく時間がかかる、空母を守るための艦艇が不足している等。
潜水艦の数も多いが、中国の潜水艦はうるさいので容易に探知して沈められるようだ。頼もしい限り。
最後の日中衝突を描いたシミュレートだが、中国の武装集団を相手に警察力で対抗しようとしたり、犠牲が出てからじゃないと反撃できなかったりと今の日本の法体系の
あり方の問題を浮き彫りにしている。
思うに、昔の日本の時代なら自由に貿易ができなくて勢力圏を拡大する必要があったが、今の自由貿易経済の世の中で何でことさら勢力を拡大しようとするのか理解に苦しむ。
今の中国は世界征服の野望が有るとしか思えない。
ノルマンディー偽装作戦
著者:ジェイムズ・リーソー 訳:伊藤哲 ハヤカワ文庫
記2013/07/15
以前、ヤフオクで外国人が書いた戦記本がまとめて安く出品されていた時に購入した本です。
外国人が書いた本はよっぽどの名作か翻訳が良くないと面白くなくて読むのが大変ですがこの本は面白かったです。
スパイ物が好きな人にはお勧めです。話としては、イギリスに住んでいたユダヤ系ドイツ人がイギリスの工作員としてフランスに渡り
上陸目標を本当はノルマンディーだがカレーに上陸すると見せかけるようにイギリスで活動していたドイツのスパイが帰って来たとい
う設定で送り込まれる。うまくいって最初はロンメルとの会見に成功、ついでヒトラーとの面会まで成功させる。
ヒトラーは元々、カレーに上陸してくると読んでいたが、あまりにも正確にイギリスに送り込んだスパイからの情報(カレーに上陸してくると
示唆する部隊の集結情報などだが、イギリスにいたドイツのスパイは本当はほとんど捕まって脅迫されていてイギリス軍に指示された偽
情報を送っていた)と一致する為、逆に怪しまれることもあったがヒトラーが深読みして結局はノルマンディー上陸を偽装することが出来た。
(工作が成功したかはよくわからないが)
もちろん、この主人公はドイツ軍の監視の下に置かれるが、もしノルマンディーに連合軍が上陸したら嘘がばれて洗いざらい吐かされるか
殺されるので頃合を見て脱走し何度もピンチに陥りながらも無事に切り抜けてイギリスに帰還する。
本人も作戦を考えたイギリス軍上層部も無事に帰ってこれるとは思われなかったが、こうして帰ってきたことによりこの話が世に知られることとなる。
太平洋戦争の真実 -資源、生産マネジメント、物流を徹底検証!! 学研 記2013/10/19
タイトルだけを見るとまたかというかありきたりの本のようにも思えますが、副題の「資源、生産マネジメント、物流を徹底検証!!」というのに引かれて購入しました。
興味深い記事がいくつかあって自分的には当たりでした。内容は主に日米の国力や戦力、生産力を比較するもので色々なデータが載っています。
この辺は時たま見かけるので大体把握していましたが、よくまとめてあるので結構重宝します。
記事のほうではなぜ零戦の20ミリ弾は小便弾になるのかというのを検証していて勉強になりました。結論を言うと20ミリ弾は決して小便弾などではなく
機首についている7.7mm弾と翼についている20ミリ弾の弾道を比較すると目の錯覚で小便弾に見えてしまうということでした。
わかりやすい図が載っていますので興味がある方は見てみてください。
図書館で借りた本10(3冊) 記2013/10/30
世界最強だった日本陸軍 福井雄二 PHP研究所
こういうタイトルの本は好きなので借りてみました。知ってることばかりで特に目新しいことは何もなし。
以前読んだ「帝国海軍が日本を破滅させた」のよな陸軍擁護、海軍批判するような内容でした。
ガダルカナルの責任問題をめぐって陸軍と海軍が議論した際に飛び出した台詞の
「敵と同等なら100パーセント勝つ。敵の半分でもどうにか勝って見せよう。いままでは敵の1000分の1にも足りない物量ではないか」
という補給が続かず全力を出し切れなくて撤退に追い込まれた陸軍の魂の叫びが胸を打つ。
ミッドウェー海戦 第一部 知略と驕慢 森史朗
ミッドウェー海戦に参加した人物についてのエピソードや証言を中心にして話が進められています。
知っていることが多いのですが、気になった点や新たな発見などを羅列しますと、
P22
日本海軍に情報参謀が置かれたのはミッドウエー海戦の後だった。
通信参謀というのはあったが情報専門の参謀はいなかった。
P176
暗号書鹵獲される
真珠湾攻撃の際に墜落した97式艦攻の電信席から半焼けの海軍呼び出し符号表が発見された
昭和17年1月20日、豪州ポートダウイン沖で伊124号潜水艦が沈没、水深が50メートルと浅く艦内から暗号書と乱数表多数が発見、回収される
P197ハルゼーの欺瞞行動
エンタープライズ、ホーネットの両空母をハワイに呼び戻す際、南太平洋で作戦行動中と見せかける為日本の第四艦隊にわざと発見させる
日本側にミッドウェー攻略作戦に敵空母は出てこないと思わせるのに一役買ったことになる
P276ミッドウェー島の増援兵力
航空兵力、戦闘機27、急降下爆撃機27、爆撃機23、雷撃機6の合計83機。他にPBY飛行艇32機。
海上兵力、魚雷艇8隻、哨戒艇4隻。
陸上兵力、守備隊3632名。12.7cm砲14門、7.6cm高射砲32門、20mm機銃多数、M3軽戦車5両。
P281
6月2日夜、第六艦隊旗艦香取にて敵空母の無線傍受、無線方位測定にて大まかな位置を掴んで各地に発信するも機動部隊は把握せず
P306空母飛龍、戦艦大和で敵空母の呼び出し符号受信。飛龍は上部に達せず途中で黙殺?大和は山本司令長官も把握するが
電波傍受を恐れ機動部隊に発信せず。
P368利根4号機発艦30分遅延
利根に搭載されていた飛行機は零式水偵2機、95式水偵3機。当日は零式水偵2機を索敵に、95式水偵2機を対潜哨戒に発艦させる予定だった。
しかし、利根の左舷カタパルトが故障して発艦が遅れたのだが、右舷カタパルトを使用して連続発射すれば遅れずに済んだ可能性があった。
ところが、第8戦隊司令部の判断で対潜哨戒用の95式水偵の発艦を優先させた為このような結果となった。
他、
フレンチフリゲート環礁に敵の警戒部隊が張り込んでいたので2式大艇によるハワイの事前偵察が出来なかった。
潜水艦部隊の散開線配備の遅れ。敵の機動部隊はすでに通過していた。
珊瑚海海戦で空母ヨークタウンは修理に90日掛かる損害を受けるが3日の突貫修理で戦線に投入される。
実際は筑摩1号機が飛ぶ第5索敵線上に敵機動部隊がいたのだが、雲の上を飛行していて発見できず。
利根4号機が敵機動部隊を発見できたのは索敵線末端まで飛行せず途中で側程に入った謎の行動による偶然でもある。
ミッドウェー海戦 第二部 知略と驕慢 森史朗
第一部は戦闘が始まる直前まででしたが、第二部から本格的な戦闘場面に移行します。
実際に戦闘に参加された方たちの証言が随所に盛り込まれており非常に臨場感がありました。
あらためてミッドウェー海戦とは錯誤の連続だったと認識させられます。勝利したアメリカ軍といえどもいくつも過ちを犯しています。
艦載機の兵装転換は非常に手間が掛かるようで通常2時間ぐらい要するようだ。空母飛龍の場合は猛訓練によって30分まで短縮したらしい。
しかし、出撃前の大幅な人事異動によって無駄となってしまった。
海戦当日の朝、5:20に第一航空艦隊より各空母へ発信された一文に「本日敵機動部隊出撃の算なし」というのがありました。
まだ索敵機の報告も無いのに敵空母がいないと決め付けてしまうのは油断というか不必要な文面を付けたなあと思います。
とにかく敵空母は出てこないという先入観を常に持ち続けていたのが一番の敗因だったと思います。
名将宮崎繁三郎 豊田穣 光人社NF文庫 記2014/02/24
本を読む前は、インパール作戦で担当区域外のサンジャックの敵に固執してコヒマに攻め込むのが遅れ本来の担当部隊の協力を断り独力で敵を倒そうとして多くの
犠牲を払っていたことがあったのでどうかと思っていましたが、この人は本当に名将だったんだなと改めて思いました。
やっぱり完全無欠な人間なんていないし、多少の作戦ミスはしかたがないし、この人のミスは多分この一戦だけだったと思う。
他は劣勢にもかかわらず非常粘り強くよく戦っている。名将たるゆえんは白骨街道といわれた退却戦で他の部隊は傷病兵や戦死者をそのまま置き去りにしていたのに対し
宮崎の部隊は一人の傷病兵も置き去りにせず、戦死者はちゃんと埋葬していることだろう。これは命令したって余裕の無い状況で従わせるのは尋常じゃないと思う。
戦い方も非常にうまい。部下任せにせず自ら前線に赴いたり命令を起草したり非常に精力的に動いているし、絶望的な状況にもかかわらず創意と工夫で危機を乗り切っている。
目を引いた点は、インド国民軍の旗を立てて部隊を多く見せかけつつ敵に無駄弾を使わせたり退却する前に攻勢に出て敵に打撃を与えて退却を容易にしたり、渡河する場面
では船は敵航空機の攻撃を受けてすぐ使い物にならなくなるので昼間は沈めて隠しておいて夜間に浮かび上がらせて使用したり、など。
インパール作戦以後は第54師団の師団長となり引き続きビルマで苦しい戦いを強いられるが上級司令部への報告では、
「わが師団将兵は、ビルマ唯一の不敗兵団たるの矜持を堅持し、闘志満々たるにつき、ご安心を乞う」と意気溌剌たるものがありちょっと痛快です。
気になった点としてコヒマから退却する道すがら遺棄された多くの武器弾薬を見て、
「軍の参謀は、どうして命令の実行を確認しないのか?自分はいつも、命令は必ずその実行を確認せよ、と参謀教育をしているのに・・・」
と嘆いている場面があったのだが、これは軍は補給物資は送ったと思い込んでいたのに後方支援部隊が道が険しくて途中で放棄して嘘の報告をしていた
ということなのだろうか?だとしたら酷い話だ。
太平洋戦争
日本軍艦戦記 文芸春秋臨時増刊 昭和45年11月 記2014/02/24
この本の中に「ああ、イ33号潜水艦浮上せず」
(撮影と文・村井茂)という非常に興味深い写真と記事が載っておりました。
伊33号潜水艦は、昭和19年6月13日の午前7時に訓練に出発、伊予灘において午前8時5分、2度目の急速潜行訓練に入ったときに給気筒頭部の
弁に木材が挟まったまま潜行し機関室に浸水、そのまま60m余りの海底に着底してしまった。復旧作業はうまくいかず最後の手段として艦長の判断で
ハッチを開放し2名が生還、残りの乗員102名はそのまま艦に取り残され死亡してしまう。
その後、伊33号潜水艦は昭和28年7月21日、9年ぶりに引き上げられることになる。他は全部浸水していたのだが、前部魚雷発射管室のみは浸水を
免れておりハッチを開けると肉付きも豊かに目も髪も黒々と冷凍された遺体が残されていたという。
しかし、遺体を外に運び出すとたちまち朽ちてしまったという。遺書も多数残されている。家族に当てたものの他に今後の訓練のあり方や擬装の不良箇所
が多かったなど後の教訓になるようなことなどもある。中には「誰一人として淋しき顔するものなくお互いに最後を語り続ける」というものもあり佐久間艇長の
ような落ち着いた最後を迎えるなんて日本の潜水艦乗りは大したものだと思う。
潜水艦を引き上げて慰霊祭を行うまでの写真も載っており、記事の通り原型を留めている遺体の写真もありました。涙なくしては見れない記事でした。
ここで一つ疑問があって、60mの海底からハッチを開けて脱出する事は果たして可能なのだろうかと思ってネットでちょっと調べてみました。
そしたら、小西さんという生存者の方の手記がありまして疑問が少し解けました。http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-i33-konisi1.html
手記によると、一旦60mの海底に沈んだがメインタンクブローなどの処置が効いたのか深度計の針が20mまで動いたあと止まったらしい。
ちょうど尻餅をついたまま艦首のみ上がった状態で司令塔付近の深度が20mだったと思われる。
ここで、艦長の決断により司令塔にいた10名余りがハッチを開けて海面まで脱出するがその後、漁船に無事救助されたのは2名のみ。
水深20mだったらハッチを開けて脱出するのは何とか可能だったかもしれない。
一九四五年夏
最後の日ソ戦 中公文庫 中山隆志
記2014/03/18
終戦間際にソ連軍が突如中立条約を破って火事場泥棒的に日本の領土に攻め込んできたことはよく知られていることと思いますが、
実際の戦闘の状況はどうだったのかというとあまり知られていないと思います。
特にこの本ではあまりスポットの当たらない千島と樺太の戦いが描かれていて貴重だと思います。
読んでみて思ったのは、戦争に負けるほど悲惨なことは無いと思いました。
中立条約違反をして攻めてきて終戦日の8月15日を過ぎても攻撃をやめず民間人も平気で殺すし停戦しようと白旗を掲げた軍使まで
射殺するしでひどい有様。それにもかかわらず、ソ連は戦勝国として東京裁判に加わり日本を侵略国家として激しく非難。
開いた口がふさがらないというか戦争に勝てば何をやっても許されてしまうのかと慄然とする。
それはともかくとして、著者のあとがきで張鼓峰事件について興味深い記述がありました。
東京裁判で、日本側が引き起こした侵略行動とされた1938年7〜8月の張鼓峰事件は、実際はソ連側によって引き起こされたものであり、
事実は次の通りであった。赤軍粛清の異常事態の中で、ソ連国境警備隊が、その地域には直接兵力を配置しないという日ソ両国の暗黙の
了解を破り、ソ連側が自ら主張する国境線(張鼓峰頂上稜線)を越えて陣地を占領したのがことの起こりであった。これを知ったソ連極東方面軍
司令官ブリュッヘル元帥は、国防人民委員宛の電報で軍事紛争がソ連側の行動によって引き起こされたと指摘し、責任者の速やかな逮捕を
要求した(国境警備隊は内務人民委員部の管轄下にあり、彼の指揮下になかった)。内務人民委員部は反発し、彼ら側のスターリンへの報告
により、スターリンの怒りを買ったブリュッヘルは、敗北主義的立場をとった人民の敵、陰謀者として逮捕、処刑された。
とある。ソ連が崩壊して色々な資料が世に出るようになったのでもっと調査研究が進んでくれればと思う。
回想ビルマ作戦 第三十三軍参謀
痛恨の手記 中公文庫 野口省己
記2014/04/19
副題にあるとおり第33軍参謀として活躍された方のお話です。
当時のビルマの状況を簡単に説明すると、ビルマ方面軍というものが設置されておりその配下に第15軍、第28軍、第33軍と3つの軍があった。
第15軍は中部ビルマでインパール作戦の準備、第28軍は南ビルマで海岸線の防衛、第33軍は北ビルマに展開して中国、イギリス軍の連絡線を
遮断していた。
昭和18年初頭に最初は第56師団の参謀として派遣され雲南方面で中国軍の反攻に対処しており、その後、昭和19年4月に第33軍参謀となる。
第33軍には第18師団と第56師団があり、第18師団はフーコン方面、第56師団は雲南方面で作戦していた。
丁度この頃にインパール作戦が開始されており、各地で敵の攻撃が激しくなる。昭和19年7月に辻政信が第33軍の参謀としてやってくる。
何かと噂の多い辻参謀ですが、この本の中ではかなりの優秀振りを発揮しています。「断作戦」を考えたのもこの人。
「断作戦」は最初、雲南方面で攻勢に出るというものだったが、後に出来る限り印支連絡線を遮断するというものに作戦方針が変わる。
北ビルマの戦いもインパール作戦に劣らずかなり大変な戦いで拉猛、騰越と玉砕部隊まで出している。
ただ、見殺しにしたわけではなく、攻勢に出て救出するつもりだったが、部隊集結が遅れたり龍陵会戦で手間取って間に合わなかった。
しかし、他の部隊は救出できたしその後、全滅部隊は出さなかった。
結局敵に押し切られてしまったが、昭和20年1月29日までレド公路を封鎖して印支連絡線を遮断し続けたのは大したものだったと思う。
これが無かったら大陸打通作戦の大勝利は無かったかもしれない。優良装備の中国軍をかなり引き付けていた。しかし、封鎖が解かれてからは
大量の軍需物資が中国に渡りその後の中国での戦いでは芷江作戦などうまくいかなくなった。
辻参謀が優秀振りを発揮していた場面は、
敵が次にどの方面に攻めてくるのかもめた時、辻参謀はバーモ、ナンカン方面だといい、山本参謀長はモンミット方面といい
決めかねた時、丁度辻参謀が出張している間に軍司令官は山本参謀長の意見を入れてモンミット方面に兵力を集中したら、
敵はバーモ、ナンカン方面に攻めてきて大慌てということがあった。
また、方面軍の田中参謀長が恐ろしく積極的で無茶な攻勢作戦を要求してきた時はみんな持て余していたが、辻参謀は一計を案じて、
田中参謀長が前線視察に来た折に味方の兵に発砲させて演出させつついかに厳しい状況か説明して命令を見事撤回させた。
シッタンかモールメンかでもめた時も辻参謀一人の意見の方が正しく敵に先んじてシッタンを占領する事ができた。
ミートキーナ守備隊長の水上少将は死守すべしという不可解な命令の真相も分かった。
これはノモンハン事件で無断で撤退したとして多くの将兵が敵前逃亡の罪で裁かれた苦い経験があったので
最悪無断で退却したり陣地を放棄した人が出ても罪に問わなくても済むようにという辻参謀の配慮によるものであった。
ただ、水上少将は確実に死なないといけない事になるし、実際、まだある程度戦力があったのにも関わらず水上少将のみ自決して
部隊が撤退してしまったのでこの命令は色々と批判がある。統帥の難しいところ。
ともかくビルマの戦いは何度も包囲の危機に晒されながら最後まで軍や師団が全滅せずに退却し、敵に出血を与えて進攻を遅らせた
点は見事だったという気がします。
遥かな戦場 伊藤桂一 光人社NF文庫
記2014/07/06
この人の戦記は非常に素晴らしいです。著者自身も実際に日中戦争を経験しており兵隊の心理描写が見事で読み出すと引き込まれて
一気に読んでしまいます。昔、雑誌「丸」を読んでいた時に伊藤桂一氏の話が連載されていたのですが、最初の頃は興味がある記事だけ
読んでいてこの人の話は非常に地味な感じで読み飛ばしていたのですが、ある日せっかく買った本だから全部の記事を読んでみようと思って
読んでみたら一気にはまりました。その後、伊藤桂一氏の本をネットで見つけたり古本屋で探したりして集めておりましたが絶版が多くて思った
ほど集められなくて残念でした。ともかく何冊か集めたのはいいけど、読むのが勿体無くて取っておいたのですが(戦記本を収集しており家に
積んでる本が沢山あって面白そうな本は残してあまり面白くなさそうな本から読んでいた)いつまでも読めず仕舞いで終わりそうなので最近、
面白そうな本も織り交ぜて読むようにしていました。久しぶりにこの人の本を読みましたがやっぱり面白かったです。
詳しくは書きません。伊藤桂一氏の本は何でもいいので一読をお勧めします。良くも悪くもこれこそ本当の戦争の実態じゃないかと思います。
続・蒼空の河
穴吹軍曹 隼空戦記録<完結篇> 穴吹智
光人社NF文庫 記2014/08/29
これも昔、雑誌「丸」に連載されていて面白かったので古本屋で前作にあたる蒼空の河の単行本を買って読みました。
それから、続編があることを知りこの本を購入したのですが今まで読まずじまいでした。
この人は非常に詳細な日記を付けていたみたいでしかも無事に本国に持ち帰れたみたいです。
戦時中に日記を付けていた人は多いけど、戦後の混乱や収容所で没収されたりして無事に持ち帰れなかったという話をよく聞きますので
この点でもこの人は幸運な人だと思います。本文中でも運の穴吹という下りが有ります。
著者は飛行第50戦隊の所属で飛行第64戦隊と共に一式戦闘機隼で終始ビルマで戦っています。
詳細な日記と中隊の作戦・情報将校の助手を務めていたとのことで空戦の模様がかなり詳細に描かれていて非常に臨場感が有ります。
太平洋の戦いなどと比べると非常に地味ですが、連日出撃をくり返しており毎回何機か落としては全機帰還、落とされても1機か2機といった
常勝を続けており読んでいて気持ちが良いです。
それにしても隼は12.7mm機銃が2門しかないのによく防御力の高い連合軍の飛行機をああも落とせるものだなあと感心します。
ほとんど狙撃に近いような撃ち方で神業に近いんじゃないかと思います。
気になった記述として以下をあげておきます。
ハリケーンはよく火を吹いて落ちていくがP40は地面に激突しても火を吹かない場合があり非常に撃墜確認が困難だった。
爆撃機装備の後上方13mm機関砲に「爆砲」という弾丸を使用しており、これは破壊力はたいしたこと無いが40mm機関砲級の
驚くほど多くの爆煙が飛び出るのでこれが発射されると敵も脅威を感じて反転、逃避していく機があった。
日米情報戦
戦う前に敵の動向を知る 実松譲
光人社NF文庫 記2014/09/28
タイトルの通り戦前から終戦までの日米の情報戦について書かれています。
お互いに通信を傍受したり大使館に忍び込んで暗号書を盗んだりと面白いエピソードが色々ありましたが、これはいくらなんでも
酷いだろというのがありましたので記しておきます。「日新丸事件」といいます。
昭和16年1月20日、日本船日新丸が石油積み込みの為、サンフランシスコ湾内のサクラメント河口に入港した。
いつものように、米官憲の検疫が行われた。この時、コカインなどの禁制品を船内に隠してはいないか、と米側は入念に調べた。
そんな物が、あるはずが無い。かれらは最後に、船長室の金庫を開けることを要求する。船長は別に怪しむこともなく、先方の
要求に応じた。だが、それはアメリカ側のトリックであったのだ。この金庫の中に大切に保管されている「船舶暗号書」などの機密文書
を見つけるや、かれらは船長の必死の制止を押しのけ、これらを強奪するやさっさと退船した。青くなった船長は、サンフランシスコの
日本総領事館に急報する。わが方の抗議の結果、それから数時間後に、暗号書などは無事に船に戻った。
商船は海上兵力の重要な一部である。「船舶暗号書」などは海軍で作成し、戦時または緊急事態の場合、海軍と商船の間の秘密
通信に使用する為配布されていた。たとえ数時間でも米側の手に渡ったことは、暗号書の内容が完全に盗まれたことを意味する。
それは、この暗号書の生命がなくなっただけでなく、わが海軍の暗号の特性を知り、秘密の程度のより高い暗号を解読する貴重な
資料にもなる。戦後になってこれは米海軍情報部の部員が税関吏に扮して暗号書を強奪したことがわかった。
それは、米海軍通信諜報部における日本海軍の暗号解読作業にとって、非常に有用な資料になったとファラゴーはその著「盗まれた暗号」
のなかに書いている。
他に日本の数少ない機密保持の成功例として戦艦大和があります。
戦後までアメリカ側にその全貌を知られることは無かったし、ニセの青写真まで用意していてこれは盗まれたがホンモノと信じ込ませることに
成功していた。
地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法 光人者NF文庫 兵頭二十八
記2015/01/24
タイトルに引かれて購入したのですが、内容は全然違いました。一応、米軍相手にいかに戦うかという課題で話は進んでいきますが
内容はかなりマニアックで一般人が読むと厳しい内容ですが、自分のような人間には興味深くていい意味で裏切られました。
著者の主観がかなり入っていると思われますが、気になった兵器についてまとめてみました。
軍刀 実戦での使用は少なく重いだけであまり役に立たなかったが、精神的効果はあり
将校の拳銃 日本に良い物がなく、あっても価格も高かったので外国産が主に使われた
手榴弾 日本軍の手榴弾は何か固いものに叩きつけて発火させてから投げないといけない
前からアメリカ軍が使ってるような安全ピンとレバーのほうが投げる時簡単でいいのに何で違うんだろうと疑問に思っていました。
このタイプの手榴弾は第一次大戦でフランス軍が使っていたらしいので日本も情報を得て採用していてもおかしくないはず。
理由は恐らく擲弾筒や擲弾銃でも発射できるようにしていたためと思われる。これがわかっただけでもかなりの収穫でした。
九二式重機 命中精度が驚異的に高いが、射界の狭いジャングルなどでは重いだけで有効ではなかった
九二式歩兵砲 平射と曲射両用できるが平射砲の代わりは務まらないし後装式なので迫撃砲のように連射できない。
81mm迫撃砲に変えた方が軽いしつるべ打ちも出来て良かったとのこと。
結構使い勝手が良さそうなイメージもあるけどそうでもなかったのかな?
九六式軽機 中国軍の使っていたチェコ軽機が故障がなくて非常に良い。
九六式軽機はよく故障したが、造兵関係者がチェコ軽機の薬室テーパーが使用するカートリッヂと微妙に、しかも2段階に違えてある
という「ミクロの秘密」に気が付いて改良してからは調子が良くなる。こんなエピソードがあったとは知らなかった。
九八式6トン牽引車「ロケ」 九六式15榴用に開発。故障が少なく信頼性が高かった。
トラック 国産トラックの中では九四式6輪トラックが一番評価が高かった。
大東亜戦争全史 服部卓四郎著 原書房 記2015/01/24
戦後間もない頃に出された大東亜戦争の通史。
個々の戦史についてはかなり簡略ですが、特に軍や中央の指導部が何を考えていたかがよく書かれてあります。
開戦までの経緯も詳しくかなりのページが割かれています。
これを読むとどうして戦争になったのか、当時の軍や政府はバカだったの一言では片付けられないことが判るはず。
戦争を回避するにはどうすればよかったかいろいろな可能性を模索しているし、日本の現状やアメリカの国力が十分脅威だったことも
十分認識していた。
簡単に言えば戦争はしたくないけど、このまま無為に時を過ごせば石油は無くなるし、国力の違いから戦力差がひらいて戦わずに戦争に
負けたことと同じになるから、自衛のため勝てるかわからないけど状況が少しでも有利なうちに戦って死中に活を見出そうと開戦に至ったと思う。
もちろん、相手があることとはいえそのような状況に追い込まれたことは十分に反省すべきだが。
軍令部総長だった永野修身もこういっている。
「戦わざれば亡国、戦うもまた亡国であれば、戦わずしての亡国は身も心も民族永遠の亡国である。
戦って死中に活を見いだし護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残せば、
我らの子孫はかならずや再起、三起するであろう」
ただ、認識が少し甘かったとは思う。あそこまで一般人も巻き込んで多くの犠牲者が出るとは思ってなかったろうし、
戦後も徹底してGHQによる洗脳が行われるとは予測自体できなかったはず。
日本精神が完全に無くなったとは思わないけどかなり弱まったのは事実だろう。
気になった点を列記。
P85 満州日ソ兵力
関特演が発動された時の関東軍の兵力は、人員約70万、馬匹約14万、飛行機約600機
内訳は関東軍12個師団、2個飛行集団、朝鮮軍2個師団、満州の独立守備隊5個に戦時定員に不足する人馬を補給。
更に内地から2個師団増派。
独ソ開戦時における極東ソ連軍の兵力は師団約30個、戦車約2300両、飛行機約1700機と判断していたが
開戦後もまだ大なる兵力の西送はみられなかった。
P113 人造石油問題
人造石油の増産によって現状を維持(戦争回避)する能否について検討。
400万トン生産の研究をしたところ、設備のために鉄100万トン、石炭2500万トン、経費21億円が必要であり工場設備完了に3年を要する。
生産は昭和16年34万トン、17年55万トン、18年181万トン、19年400万トンの計画だが実行上には大なる難点がある。
それに、今の国際情勢で軍の予算を減らされても困るし油の問題は人造石油のみでは解決できぬ部面もあるとして見送られる。
P115 北樺太の油田を買収し自存を完うする案
多大の困難を伴うしアメリカの干渉もある、なにより年間150万トンでは全然足らぬと結論された。
P146 戦争相手を蘭のみ又は英蘭のみに限定し得るか
英蘭は一体、米英は不可分との結論に至る。
政略上の理由
米英蘭の間に帝国の対南方武力進出の場合に於ける共同防衛に諒解があるのは殆ど疑いなき所
従来の英国側の言動に鑑み、蘭印に進出すれば必ず英国が武力的に対抗してくる
英国が対抗してくれば必ず米国の援助を求めてくる。米国は即時参戦しない場合でも急速に
軍事的措置を強化して各種牽制的示威等の段階を経ていずれ参戦してくる。
作戦上の理由
米英両国を措いて蘭印作戦を遂行し、或は米を措いて対英作戦のみに終始せんとする如きは、
我より求めて敵に割中せらるるの戦略態勢を作為するものにして新嘉坡、香港又は比島等に対し
作戦線の弱点たる側面を暴露するものにして、作戦実施上なし得ざる所なり。
P152 敵国軍の兵力配置及び戦力判断
杉山参謀総長が昭和16年11月15日の御前会議において報告した南方諸地域の敵正規軍の兵力は次の通り。
馬来 陸軍兵力 約6〜7万
飛行機 約320機
比島 陸軍兵力 約4万2000 飛行機 約170機
蘭印 陸軍兵力 約8万5000 飛行機
約300機
緬甸 陸軍兵力 約3万5000 飛行機 約60機
総計 陸軍兵力 約20数万 飛行機 約850機
P152 日米戦力の比較
将来に於ける日米艦艇勢力比は、昭和18年において対米5割内外、昭和19年において対米3割以下に
低下すると判断せねばならなかった。
航空機の日米生産能力の予想
昭和17年度 日本(海軍のみ)4000機 米国 47900機
昭和18年度 日本(海軍のみ)8000機 米国 85000機
昭和17年度 日本(海軍のみ)12000機 米国100000機
米国は10倍以上の優位を示していた。
固より日本側においては、海軍と略々同数の陸軍機の生産があるが、当時陸軍航空兵力を
海洋作戦に指向することは、訓練、性能等の点から殆ど期待し得ないと考えられた。
日本海海戦の深層 別宮暖朗著
ちくま文庫 記2015/11/27
日露戦争の海戦についてかなり細かいところまで考察している本で勉強になりました。
日清戦争の頃までの海戦では必ずしも大口径砲が有利というわけではなく中口径の速射砲の方が有効だったらしい。
当時戦艦が装備していた大口径砲は発射速度が遅く1時間に3発も撃てなかった。
それに当時は砲術が十分ではなく命中率もかなり低かった。
しかし、4.7インチ速射砲は1分間に8発発射できる。
速射砲は確かに威力は低いが多数命中させることにより戦艦などは沈めることはできなくても無力化することはできる。
日本は貧乏だったので戦艦を揃えることができなかったと思っていたが、艦隊速度と速射砲重視で十分戦えると考えていた
としたら黄海海戦は勝つべくして勝ったと言える。
けど、やっぱり戦艦が買えなくて巡洋艦に大口径砲1門備えた三景艦を作ったりしていたので確信は持っていなかったとは思う。
日露戦争の頃になると砲術はかなり進歩した。砲術計算・照準望遠鏡・測距儀・トランスミッターなど
トランスミッターという用語が出てきて気になりましたが、目標・苗頭・距離などを電気的に数字で示す機械らしい。
確かに伝声管でいちいち伝えるよりは素早くて便利かもしれない。
主砲の発射速度も1分間に1発は撃てるようになった。その影響かわからないが腔発が多発するようになった。
原因は砲身赤熱説が有力だった。12インチ砲では、20発前後から砲身の付け根が赤熱してしまう。
そして弾丸がそこを通過するとき、信管が作動してしまうというもの。
信管の不良とか下瀬火薬が原因との説もありますが、日本海軍に限らずどこの海軍でも発生していたとなると砲身赤熱説が
正しい気がします。連装砲だと片方が腔発を起こすともう片方も使用不能になってしまう。
日本海軍では終始連装砲主体の艦船が多かったのを疑問に思っていたがこれが原因なのか?
だが、ネットで調べてみたら腔発はあまり関係なく技術的な問題や砲塔が多い方が有利だと思われたりで三連装砲も検討されて
いるけど結果的に採用されなくて連装が多かっただけということみたいだ。
バルチック艦隊の指揮官ロジェストウエンスキーについても書かれている。
昔よく知らない頃は日本海海戦で大敗したロジェストウエンスキーは無能な提督だと思っていたが、「海の史劇」という本を読んで
考え方が変わりました。確かにあれだけの大艦隊をヨーロッパから日本近海まで回航してくるだけでも大変なことです。
しかも日本と同盟しているイギリスが各地で妨害してきたり、日本の水雷艇がいつ襲ってくるか常に警戒させられたり、ロシア寄りの
国々にも日本が中立を厳守するようにたびたび警告して牽制したので十分な支援が受けられなかったり本当に大変だったと思います。
今回もこの本を読んでみて、非常に勇敢で有能な提督だったと改めて思ったし皇帝の信任も厚くこの提督で海戦に負けたのでロシアも
仕方がないと思って講和に応じたとも言えるかもしれない。
日本海海戦でロシアの戦艦スワロフ、アレクサンダー三世、ボロジノの3隻は転覆により沈んだらしい。
もともと転覆しやすい構造のうえに石炭の過積載が原因らしいのだが知らなかった。
この著者は「坂の上の雲」を書いた司馬氏を批判的に書いているが、ネット上では別宮氏のこの本を批判する記事を見かけた。
やっぱりいろいろな本を読まないと真実は見えてこないのかなと改めて感じた。
歴史群像No.134 学研 記2015/11/27
この本で個人的に興味のある「八路軍vs日本陸軍」という記事を見かけた。
平型関の戦いというのが出てきたがこれは、中国共産党が大勝利と宣伝している単なるプロパガンダで、大きな作戦における一局地戦で輜重部隊が
襲撃されて死傷者約200人の犠牲を出しただけの戦い。
1927年に中国共産党軍は国民党軍との内戦で大打撃を受けて長征という壮大な退却戦で壊滅一歩手前まで追い込まれていた。
しかし、昭和11年12月に西安事件が起こり国共合作により矛先を日本に向けさせて抗日戦を行うように蒋介石に強要する。
昭和12年7月支那事変が起こって日中戦争が始まり共産党軍は国民党軍に編入され八路軍となるが、兵力が少なく日本軍と正面から戦うことは無理。
その頃ちょうど共産党の中から毛沢東が台頭してきて「敵が進めば我は退き、敵が駐どまれば我は乱し、敵が疲れれば我は打ち、敵が退けば我は追う」
という遊撃戦を展開する。そして、農民を味方につける政治工作に重点を置いて勢力の拡大に努める。これらを「人民戦争」という。
日中戦争が始まってから華北の大部分は日本軍の占領地となったが、各地で抵抗を続ける敗残兵や匪賊などが残った。
八路軍はこれらのグループと接触して味方に引き入れ勢力を拡大、ゲリラ活動が活発になり日本軍も無視できなくなってくる。
そこでたびたび粛清作戦を行うも一定の戦果はあがるが共産党軍の勢力拡大を防ぐことはできなかった。
昭和15年8月20日夜、華北一帯で突如、八路軍が115個団をもって主に鉄道、炭鉱を目標とする同時多発的な奇襲攻撃を仕掛けてくる。
当時、日本軍は広域を警備する必要から「高度分散配置」と呼ばれる配備を採用しており、兵力が分散していて苦戦を強いられる。
百団大戦と呼ばれるこの戦いで日本軍は衝撃を受け共産党軍に対する脅威を改めて認識し治安戦に拍車がかかる。
日本軍の行った対策として、
戦訓をもとに粛清作戦の効果を上げたこと
警備に特化した旅団の編成(独立混成旅団)、北支那特別警備隊の編成
治安状況に応じて「治安地区」「準治安地区」「未治安地区」と区分けして順次ステップアップさせる方策
住民を味方につけるため物資を供給するなどの宣撫工作
未治安地区への人と物流を遮断させることにより共産党軍の兵力と兵器が増えるのを防ぐ(長大な遮断壕や多数のトーチカを設置)
これは批判もあることだが、共産党軍に利用される恐れのある未治安地区の食料、資源などの収奪
その結果、共産党軍の勢力をかなり減少させることに成功した。
しかし、昭和19年に大陸打通作戦が始まると華北の兵力が華中、華南へと移動して日本軍のいない空白地帯に共産党軍が侵入し
武装部隊91万、民兵220万と兵力が激増して効果を上げていた治安戦が失敗し終戦を迎える。
独立混成旅団の編成(昭和13年2月9日)が載っていた書き留めておく。
旅団司令部
独立歩兵大隊5個 92式歩兵砲×2、41式山砲×2
歩兵中隊4個 重機関銃×2
旅団砲兵隊 94式山砲×12、94式野砲×6
旅団工兵隊
旅団通信隊
日露戦争陸戦の研究 別宮暖朗 ちくま文庫 記2016/2/1
今度は日露戦争の陸戦についてのお話です。
日本は本当にギリギリの戦いで奇跡的にすべてがうまくいって戦争に勝ったと
思っていましたが、この本を読むとどうも参謀が立てた作戦がいまいちだったようです。
でも、その時々の指揮官がうまく戦って兵隊がよく頑張ったから結果的に勝てたとのことです。
確かに旅順攻略戦では多くの犠牲が出ましたが、これも参謀本部が攻撃を急がせたからで第3軍司令官の
乃木は壕を掘り進める作戦に切り替えて何とか攻略に成功する。
満州軍総司令部は両翼に弱い部隊を配置する悪癖があったようで沙河会戦では最右翼の近衛後備旅団が敵の猛攻を受けて
戦線崩壊の危機だったが旅団長梅沢道治の強靭な粘りで戦線を支え切って勝利の端緒を掴む。
黒溝台会戦では最左翼の秋山支隊が敵の猛攻を受けるが事前に堅固な陣地を築いていたこともあり救援部隊が到着するまで
よく持ちこたえた。
奉天会戦では当初の計画では第3軍は奉天の遥か後方の鉄嶺まで進軍するはずだったが第3軍司令官乃木の独断で隣の第2軍と
の連携を重視して旋回半径を小さくし奉天を目指すように進路を変更する。
そのまま突出していたら第3軍のみ敵中に孤立していたかもしれず後に満州軍総司令部も独断を認める。
クロパトキンは旅順を落とした乃木の第3軍を過大評価していて次々と増援を送るが進撃を押し留めることができなくて
退路を断たれるのを恐れてついに撤退を開始する。乃木将軍はよく無能扱いされていますが(坂の上の雲の影響?)名将とまでは
いかなくてもそれなりに有能な軍人だったと思います。
確かに旅順攻略戦では多くの犠牲が出てしまいましたが、後の第一次世界大戦でも同じような状況で多くの犠牲者を出して
いることを考えるとむしろよく旅順を落としたという感じはします。
戦時標準船入門 光人社NF文庫 大内建二 記2016/2/1
戦時標準船について非常にわかりやすくてよくまとまっています。
少しですがアメリカとイギリスの戦時標準船についても触れているので日本の場合と比較すると興味深いです。
アメリカの戦時標準船の主力はリバティー船。
戦後は意外と不遇で戦後の一斉検査で780隻も工作不良船としてスクラップにされる。
700隻前後が世界の海運会社に売却され、1000隻前後が係留保存される。
その間に戦後の復興期が訪れ優秀な船が登場するようになると続々と廃船になり解体された。
イギリスの戦時標準船の主力はエンパイヤ船。
こちらは作りが良かったようでリバティー船よりも長く使われたようだ。
日本の第二次戦時標準船は粗悪ではあったけど戦後も改造を施して長く使われた船もあったようで少し報われた気がします。
気になったものを列挙
P184
せりあ丸の快挙
せりあ丸は第二次戦時標準船として昭和19年6月30日に完成。
門司とシンガポールを往復して貴重な重油やガソリンの輸送を3回成功させる。。
1回目が昭和19年7月31〜8月15日、2回目が昭和19年9月8〜11月1日、3回目が昭和19年12月19〜翌年1月7日。
元々潜水艦による被害が多い時期で更に3回目は米軍のフィリピン攻略戦が始まり制海権も制空権もほと
んど無い状態にもかかわらず無事に任務を果たしている。
終戦時は損傷した状態で放置されていたが修理可能と判断され昭和24年5月修理完了し石油輸送を開始。
昭和38年2月に売却解体されるまで長く活躍した武運めでたい船であった。
ネット少し調べてみたら昭和20年3月になってからでも「東城丸」「東亜丸」「富士山丸」「光島丸」
の4隻が石油を日本に持ち帰ってるとは驚きであった。
P183
年度別石油還送計画と還送量の実際
年度 計画還送石油量 実際の還送量 差(単位:キロリットル)
昭和17年 280000
1673000 1393000
昭和18年 2540000 2305000 ▲235000
昭和19年
4770000 791000 ▲3979000
昭和20年 4770000
170000 ▲4600000
上の方の書評でも還送量を書きましたが、計画と合わせてみると興味深い。
南方の石油施設の復旧が思いのほか早く、敵潜水艦の活動もそれほど活発でない
昭和18年ぐらいまではまずまずの成果であったことがわかる。
P110
日本国内で供給可能な鋼材の総量と造船用鋼材の占める割合
年度 鋼材総量(単位千トン) 造船用鋼材総量 造船用鋼材割合(%)
10
3737 321 8.0
11
4264 567 12.5
12
4673 755 14.1
13 4871 355
6.9
14 4609 199 4.3
15
4522 285 6.1
16 4184 274
6.5
17 4037 550 13.6
18
4124 1135 27.6
19 2607
1200 46.3
20 460 158 34.3
船の重量の何割ぐらい鋼材が使われているのかわかりませんが興味深い数字。
P267
第二次大戦勃発時の商船保有量 失った商船 建造した商船
イギリス 2100万総トン 1130万総トン 731万総トン
アメリカ 1000万総トン
不明 2277万総トン
日本 640万総トン
838万総トン 338万総トン
簡単にまとめてみた。
建造量がイギリスにも遠く及ばないのは残念だがアメリカの多大な支援を
受けていると考えれば資源の少ない日本と差が出ても当然か。
イギリスは第一次世界大戦でも800万総トンの商船を失っている。
満州国の首都計画 越澤明著
ちくま学芸文庫 記2016/5/11
最近、マインクラフトというゲームにはまっていて街づくりをしていたら、ふとこの本があったことを思い出して読んでみました。
ほとんど何もない更地からいきなり首都を作ろうという試みは凄いとしか言いようがない。
次々と立派な建物が立ち並び道幅も広く、大きなため池を作って自然を豊かにし公園を多く整備したり、街並みにも気を使って建物の高さを規制したり、
電柱は立てず電線を地下に埋設したり上下水道完備だったり、当時の日本でも見られないような近代都市がたちまち満州国の首都新京に誕生した。
例によって以下、気になった部分を列記する。
P46 昔の満洲は封禁の地として漢族の進入を禁止していたのだが、徐々に入植者が増えて満州人・蒙古人を圧倒してしまった。
P61 日露戦争で勝利した日本はロシアから東清鉄道南満洲支線を譲渡される。
ロシアは鉄道を主に軍事利用する色彩が強く、沿線一帯は、原野、農地で都市、町とは距離を置くように設定されていた。
しかし、満鉄では鉄道付属地の都市建設に積極的に取り組んだ。
P81 満鉄は都市計画において付属地と既存の中国人街との連絡に注意を払っている。満鉄は
「会社は既述のごとく付属地の性質に鑑み極力支那街との協調に努力し、住宅、商業、糧桟、工業の四種地域を按配して日支両街の結合発達を図り、
・・・・ロシアの大連、ハルピンにおける民族的差別に基づく蔑視的地域制、あるいは侵略的な多民族抑圧の地域制定を匡正して、全市民のために交通
衛生、保安、経済の諸角度から考察して健全なる都市発達を理想としたものに他ならぬ」と述べてる。
P238 建物の特徴を見ると当時日本で流行っていた帝冠様式に似た興亜様式の建物が多い。
P253 欧米列強の租界や植民地では、その土地の歴史的風土・地理的条件にはお構いなしに本国の建築様式を前面に押し出して威圧するが如く立派な建物を
立てる場合が多いのに比べると日本はよく配慮しているといえる。
P310 満鉄は鉄道、港湾、鉱山など収益性の高い事業部門を抱えておりその利潤を都市経営に回すことで租税負担が軽いにも関わらず水準の高いインフラを整備している。
P330 終戦後、米国のウェデマイヤー将軍は新京国都建設について「実にワンダフルな計画である。恐らく後世に誇るべき傑作であろう」といっている。
このとき応対していた高碕達之助は「その実行が計画の1割にも満たない今日、あなたがたの邪魔で中断してしまったことは誠に遺憾である」と答える。
たんたんたたた 機関銃と近代日本 兵頭二十八著 光人社NF文庫 記2016/9/18
日本の機関銃の歴史について書かれています。拳銃と小銃についても少々触れらています。例によってマニアックで色々と感心させられました。
機関銃は最初の頃は多銃身のガトリング砲が使われていましたが、1884(明治17)年に単銃身から毎分600発の弾丸を発射できる画期的な機関銃、
マキシム機関銃が発明されました。
以下、気になったところを列記。
P63 反動利用式とガス利用式
日本では高度な工作精度を要する反動利用式のマキシム機関銃を量産することができず
やや甘い精度でも作れるガス利用式のホチキス機関銃をライセンス生産して日露戦争に臨んだ。
この本を読んで痛感させられるのは当時の日本の基礎工業力の低さです。近代化したばかりで仕方ない面もありますが、初めは輸入品のコピーを
試みるのですが結局うまくいかず、詳細な図面や工作機械を導入したライセンス生産に切り替えるということがしばしば行われています。
P257 日本海軍が主力として装備した対空機銃は25mm機銃
25mm機銃が命中を期し得るのは1500m、13mm機銃は1000mまで
口径8cm以上の高角砲は、信管や照準装置の関係で3000m以上でないと狙いをつけることができない。
日本海軍の防空火網には1500mから3000mまでの間に空白があった。
そこで海軍が考えた策は、曳跟弾を撃ち上げることにより、敵急降下爆撃機のパイロットの意思を動揺させる脅かし射撃でした。
機銃は単装式でないと高機動目標に対応できない。軍艦には主に連装式や三連装式が多く単装式より当てられなかったようです。
疑問に思ったのは、何故その弱点に気が付きながらアメリカ海軍のようにその空白を埋める40mm機銃が開発されなかったのか、追従性の悪い
連装式や三連装式が多く配備されたのか気になりました。
それと何故これほど量産された25mm機銃が航空機用に転用されなかったのかが気になります。一応、試作はされていたようですが・・・
ページの終わりに関連年表が載っていて普段なら読み飛ばしまうのですが、結構読み応えがあって全部読んでしまいました。
図書館で借りた本11(3冊) 記2016/09/27
消されたマッカーサーの戦い 田中宏巳著 吉川弘文館
まだ未読ですが、「マッカーサーと戦った日本軍」というニューギニア戦を扱った労作を出していた著者なので気になって借りてきました。
うーむ、何だかマッカーサーをやたらと持ち上げてる感じの本でした。
著者が言うには、太平洋戦争はマッカーサーが戦った南太平洋からの反攻作戦よりも、ニミッツが戦った中部太平洋からの反攻作戦の
方が人気があってクローズアップされているとし、不当にマッカーサーが戦った戦いが無視されているというもの。
言われてみれば確かにそんな感じはするけど、マッカーサーが戦った歴史がなぜ低く扱われているのかという、正直どうでもいいようなことを
丹念に調べています。
辛らつに日本軍の作戦を批判するのは戦争に負けたのである意味仕方ない事ですが、ことさらアメリカ軍(マッカーサー)の作戦が優秀だったという
のはどうかなあと思います。確かに優秀な部分もありますが、やっぱり物量の差でアメリカ軍は結局ごり押しでどんな作戦もうまくいっていたと思う。
個人的に、マッカーサーは「私は必ず帰ってくる」と言ってフィリピンから逃亡したし、戦後に戦犯として自分が戦った相手の本間将軍と山下将軍を
報復として絞首刑にしているし、別に無理して多くの犠牲を払ってまでフィリピンに攻めてこなくても十分に日本を倒すことが出来ただろうにと思うと
あまりいいイメージは無い。
終戦後にGHQの主導で戦史の編纂が行われるのですが、その部分の話はなかなか興味深く読めました。
服部卓四郎がなぜ戦後間もない頃に、「大東亜戦争全史」という大作を出版する事ができたのかの疑問も解けました。
日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争 リチャード・オルドリッチ著
イギリスの諜報機関から見た極東地域の諜報戦が書かれています。あまり期待していなかったのですが思ったより面白かったです。
諜報戦については知らない事も多く興味深いエピソードが色々とありました。
P46 1938年頃ですが、日本海軍の暗号は英国情報局に解読されていたという。
しかし、1939年にはより高度なJN-25暗号に切り替えられた。同時に外務省もパープルと呼ばれる暗号に切り替えられる。
一方、日本陸軍の暗号は解読不可能な暗号と言っているのが非常に気になった。
ネットで調べてみると、日本陸軍は特別計算法、無限式乱数(ワンタイムパッド)と言われる暗号を使っていた。
P52 コックス事件
この本では日本でスパイ容疑で逮捕されたコックスは窓から飛び降りて自殺したのに殺害されたとしているが、ネットで調べてみると英国領事と医師が死体検分を
しているし、憲兵隊での扱いは良かったとの報道もなされているので思い過ごしではないかと思う。
P66 西村事件(篠崎スパイ事件)
東南アジアには日本人入植者が多く緊迫した情勢の中、情報活動に従事するものも多くいた。そんな中で起きた事件。
西村事件で検索したが該当事件は無く、「篠崎スパイ事件」の項目にそれらしい事件が載っていた。
P74 マレー作戦に協力した英軍将校のスパイ
第300空軍情報連絡部というところで働いていたパトリック・ヒーナン大佐は日本のスパイとして英空軍の配備状況について詳細な情報を日本側にもたらしていた。
P76 オートメドン号事件
イギリスの貨客船「オートメドン」が、ドイツの仮装巡洋艦アトランティスに撃沈され、イギリス極東軍司令部宛の機密文書がドイツ軍に押収された事件。
ドイツから日本にも情報が伝えられ、日本側は大いに感謝したという。一説には日本の開戦への意思決定に相当の役割を果たしたとも言われる。
P77 英本国の対日協力者
在ロンドン日本大使館と緊密な連絡をとって情報提供者の役割を担っている英国人が5人いた。エドワード・グリッグ議員、ロイド・ジョージの捜査担当秘書のジェロソウル氏
センピル提督(日本に航空技術を指導した教育団の団長)、マックグラス海軍中佐、後1名は記載無し
P96 日本軍を過小評価
日本軍が恐るべき敵だという情報は得ていたが、人種的偏見もあり一等国に戦いを挑む能力はないという思い込みがありそれらの情報には目を向けなかった。
零戦の性能や酸素魚雷の情報も得ていたらしい。これでもかというぐらい日本軍を過小評価していて興味深い項でした。
P129 日本陸軍の暗号
日本陸軍の高度暗号は10年ほど解読不能だったとある。開戦の10年前から優秀な暗号を使っていたということか。
大量の文書を処理するのに懸命で、高度暗号解読はあきらめていたが途中から本腰を入れて45年には約2500人がこのひとつの暗号解読に取り組んだが結局解読できなかった。
P136 ルーズベルト大統領の外交政策は側近のみで行っていた
英国側では日本は1941年に開戦するとは思っていなかった。ルーズベルトの戦争も辞さない強硬な対日外交政策を英国側では理解していなかった。
イーデン英外相の私設秘書オリバー・ハーベイは真珠湾攻撃の後、「日本にはまったく驚いた。まさかわれわれと米国とを同時に攻撃するとは思ってもみなかった。
気が狂ったに違いない」と述べている。
P245 拉致
めずらしく連合軍情報機関の陰部が赤裸々に書かれている。東南アジアの住民を拉致、脅迫して工作員に仕立て上げていたという。
P270 ビルマの日本軍
レイプや殺人は日常茶飯事、日本兵は高級品だけでなくスリッパや家具といった日用品まで盗んだという。
いくらなんでもそこまで酷くないと思うが、欧米人は相変わらず極悪非道の日本軍史観に凝り固まっているのか。
P296 米国の新聞にミッドウエー海戦における勝利は米海軍が日本軍の行動を事前につかんでいたことによるとの記事が載った。
日本海軍の暗号が強化される恐れがあった。英国は米国の通信情報の機密保持に懸念を持っていたが、これが裏付けられた。
P311 中国の暗号
中国の暗号は日本に解読されていたので英米は中国との連絡に頭を痛めていた。
日本陸軍も中国軍の暗号を解読していて作戦に大いに役立てていたと言われる。
色々な組織が出てきてややこしかった。主なものを列記してみる。
米戦略情報局(OSS)
英秘密情報局(SIS)
特殊作戦執行部(SOE)
陸軍情報部(MID)
極東統合局(FECB)
英政府暗号研修所(GC&CS)
合同情報委員会(JIC)
政略戦本部(PWE)
米海軍情報部(ONI)
東南アジア連合国軍総司令部(SEAC)
東南アジア通訳・尋問センター(SEATIC)
シンガポール極東統合局(FECB)
海軍ダメージ・コントロール物語―知られざる応急防御戦のすべて 雨倉孝之著 潮書房光人社
組織や教育、実戦の状況がメインでどんな設備があったのか具体的にどんな事をしていたのかということをもっと知りたかったのですが、
そもそもダメコンについての情報が少なすぎるので少しでも実相がわかって貴重な本でした。
昭和12年頃、防水、防火、注排水などの艦内防御(ダメージ・コントロール)は運用科と工作科が行っていた。
昭和18年12月に運用科と工作科、他を統合した内務科が誕生する。
その中に(艦によって若干違いがあるようだが)以下のような部署があった。
運用部 防火、防水や船体、船具の整備とか運用の諸作業
工作部 船体、船具の工作、修繕、兵器、機関の修理、潜水作業
電機部 モーター、発電機の運用
補機部 揚鎖機、揚貨機、冷却機、製氷機、各種ポンプの取り扱い、注排水任務
日本海軍も決して防御を軽視していたわけではなく次々と対策を行っているのですが開戦までには十分な備えは出来ておらず、
実戦の経験と研究によって徐々に充実していきますが、結局、戦局が悪化して爆弾や魚雷を食らい過ぎて手の施しようがない事が
多かったというのが実態のような気がします。
図書館で借りた本12(2冊) 記2016/10/22
本はよく買うけど買っただけでなんか安心してなかなか読書が進まないのですが、図書館で借りると返却期限までに読まねばと
強迫観念に狩られて読書がはかどるのがいい。もちろん財布にもやさしい。
私生活でもそうだけど、どうも追い詰められないと行動を起こせないというのが自分の悪い所だと思っている。
日本は勝てる戦争になぜ負けたのか 新野哲也著
自分にとって大東亜戦争はどうすれば勝てたのかが永遠のテーマなのでこの類の本があればつい手を出してしまいます。
冒頭に「日本兵は世界一強かった。われわれが勝利することができたのは、幸運だっただけだ---日本の戦争指導者は世界一愚かだった。
われわれが勝つことができたの当然だった。」というガダルカナルで日本軍と戦ったロバート・レッキーの言葉が登場する。
本の内容もこれに集約されていて日本の指導者がいかに愚かだったのかということを嫌というほど述べられている。
それは置くとして、日本が勝つには次の三つの鉄則を守ればよかったと述べる。
1.支那戦線に深入りせず、満州を守る 2.南アジア解放後、インド洋を制圧する 3.日本領の南の島を要塞化する
1と2はいいとして、3は疑問が残る。確かに日本は手を広げすぎたのは問題だったが、時間を掛ければ国力の違いで戦力差が開くばかりだし
圧倒的な兵力で攻められたら硫黄島が落ちたごとく敵に出血を強いる事ができても守るのは難しかったのではないかと思う。
そうなる前に西亜作戦がうまくいって英国と支那が脱落してアメリカの戦意が衰えれば別だが。
真珠湾攻撃はよく議論される問題だが、確かにアメリカの戦意が異常に盛り上がった事は非常にまずかったと思う。
英蘭だけと戦争をすればアメリカは参戦しなかったというのはちょっと無理があると思うが、アメリカの方から参戦してきたとしたら戦意はそれほど
高まらず妥協点を見出して適当なところで停戦に持ち込めた可能性が少しはあるかもしれない。
あと、真珠湾を徹底的に叩いておけばというのも同意できる。第一次ソロモン海戦でも敵輸送船に手をつけずに引き上げているが、これも日本人の
悪いところで徹底さが無いというか非情になりきれないというか、一撃の戦果に満足してそれ以上の攻撃を手控えてしまう。
海軍には敗戦革命(戦争に負けて外圧を使って日本を再生する)思想を持った人物がいて、わざと戦争に負けるような行動(支那事変の拡大、真珠湾奇襲攻撃、
西方戦略の放棄)をとっていたというのはちょっと無理があるかなと思うが、面白い発想だと思った。
P30 日本兵が世界一強かった一方、戦争指導者が世界一愚かだった理由は、かれらが武士の末裔ではなく、西洋の文物を学んで支配階級の地位を得た
新興エリートだったところにあったといってよい。
P55 ルーズベルトの前の大統領のフーバーが、満州事変直後、日本に経済制裁をおこなおうとしたが、戦争になる可能性を考えてやめている。
専門の政府機関に研究させた結果、アメリカが日本と戦争をして勝てる可能性は50パーセント以下だったからである。
P170 戦後、日本は満州や朝鮮半島、台湾、南洋諸島を失った。だが、短時間で経済復興を果たした。勢力範囲におさめた外領から何も奪っていなかったからである。
16世紀におけるスペインやポルトガルの大繁栄は、中南米やアジアからの略奪と奴隷貿易、奴隷酷使によってもたらされた。
その植民地をオランダや英仏に奪われて、両国は没落した。英仏蘭も先の大戦で、同じコースを歩んだ。
日本軍によってアジアの植民地から追放されてかつての繁栄が過去のものになったのである。
欧米列強に支配された中南米や南アジアは、今もなお貧困や後進性にさいなまれている。資源や富ばかりか、文化や歴史までを奪われた悲劇である。
一方、日本が占領した台湾や韓国、満州(現中国東北部)は、戦後、急速に発展した。日本がつくりあげた産業インフラが、近代化に貢献したのである。
P207 「第二次大戦回顧録」でチャーチルが妙な事を言っている。「今度の戦争ほど、防止する事が容易だった戦争は、かつてなかった」。意味深です。
全文リットン報告書 渡部昇一解説・編 ビジネス社
前から気になっていて文庫化されたら買おうと思っていましたが、結局されず図書館にあったので借りてきました。
報告書には調査団が編成された経緯から中国や満州の歴史、現在の状況など丹念に調べられていてこれは欧米に亜細亜の特殊な事情を知ってもらうには
いい機会だったのではないかと個人的には思いました。
内容も中国の極端な排外主義の実態や日本の権益が脅かされている状況にも触れられていて、一方的に日本が悪かったといえないような感じになっていて
もう一押しできたらもっと日本に有利な結果を引き出す事ができたかもしれない。
少なくともイタリアのエチオピア侵攻や国連を除名されたソ連のフィンランド侵攻とは全く違っていたと言えるだろう。
読み物として普通に面白かったです。巻末に英語の全文も載せられています。
P81
日本は支那にいちばん近い国で、また支那は最大の顧客だから、日本は本章で述べたような無法状態によってどこの国よりも強く苦しんでいる。
そこで条約上の特権に代わるような満足な保護が期待できない場合は、到底支那側の願望を満足させることは不可能だと感じている。
支那における日本の権益はとくに満州において顕著であるから、ほかの大多数の国の権益が撤回されることになっても、日本は自国の権益をいっそう強く主張する。
日本は、支那における日本国民の生命・財産の保障に対する不安から、支那の内乱や地方的混乱に際してはしばしば干渉を行ってきた。
そうした行動は支那人の憤激を買い、日本の主張は、他の列国のすべての権益以上に、支那の国民的願望に対する重大な挑戦だと見られるようになった。
P100 満州事変(1931年9月)以前の満州では、軍事費は全経費の80パーセントに達すると推定されるため、その残額では行政、警察、司法、教育の費用をまかなう
ことができず、官吏に対する俸給も支給する事ができなくなってしまった。
軍隊を養うためには重税を課す必要があるが、通常の収入では足りないため、当局は省政府が発行する不換紙幣の価値をだんだん下落させることによって
人民に課税した(満州の紙幣は何十種類とあり、好き勝手に大増発されたから定期的に価値は下落、紙くず同然となった)。
右のような政策は、1930年ごろからほとんど独占的となった「豆類公買」に関連して行われ、特に最近ひどくなった。満州の重要物産の管理権を握ることによって
当局は、豆類購入業者、とりわけ日本人に対して高価買い入れを強制し、収入を増大させようとした。
P158 満州の間島地方には朝鮮人が多く住んでいたのだが、日本がもし満州における朝鮮人に対して、ほかの日本国民に許されたのと同様の権利と特権を要求しなければ、
それは朝鮮人に対する差別になると主張した。
P170 万宝山事件の誇大報道の結果、朝鮮全道にわたって、激烈な「反支暴動」が続発した。
支那側の広報では、支那人127人が虐殺され、392人が負傷し、250万円に達する支那人財産が破壊されたと称した。
P306 問題は極度に複雑だから、いっさいの事実とその歴史的背景について十分な知識をもったものだけがこの問題に関して決定的な意見を表明する資格があるというべきだ。
この紛争は、一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに、他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない。
また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない。なぜなら満州においては、世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情
があるからだ。右の地域は法律的には完全に支那の一部分であるが、その地方政権は本紛争の根底をなす事項に関して日本と直接交渉を行う広範な自治的性質をもっている。
補給戦―何が勝敗を決定するのか マーチン・ファン クレフェルト
(著),
中公文庫 記2016/11/03
戦争において補給が重要な事は良く知られる。この本では補給戦から見た戦争の歴史が描かれている。
自分なりに重要だと思われること、会得した事などを章別にまとめてみた。
第一章 16〜17世紀の略奪戦争
P28 17世紀の基本的な兵站の実相
第一 食っていくためには移動し続けることが絶対必要
第二 行動の方向を決めるとき、根拠地との接触を維持することにあまり頭を悩ます必要はない
第三 河川をたどり、できるだけその水路を支配することが重要である
当時の軍隊の補給は殆ど現地徴発(略奪)に頼っていたので1箇所に留まっていたら食べるものがなくなる為常に移動し続けることが必要だった。
弾薬の補給はそれほど重要ではなく、砲弾も砲一門につき1日4発程度しか消費していない。 戦争が長引いて中央ヨーロッパが荒廃した時に軍需品倉庫が出現する。
第二章 軍事の天才ナポレオンと補給
ナポレオンは補給が困難な包囲戦を避けて会戦を多く行っている。まだ現地徴発に頼ることが多く、ある地域に長期間駐留するたびごとに、補給困難に陥る。
P129 ナポレオンの戦争体系の恐らく最も革命的な側面は、そのような駐留を防ぐ方法を彼が知っていたこと
戦略的前進から会戦、進撃へすぐ移ることができたこと、および包囲攻城戦を避けたことだった。
第三章 鉄道全盛時代のモルトケ戦略
普仏戦争(1870)ではドイツの鉄道が大いに活躍したように言われているが実際は
鉄道が戦争の推移に大した影響を与えなかったという。以下のような理由があった。
普仏戦争の頃の鉄道性能はドイツよりフランスのほうがよかった。
列車で運んだ大量の補給物資を兵站駅から前線に運ぶことができなく腐らせることが多かった
鉄道計画が完全でなく渋滞や混乱が生じてうまく機能しなかった
鉄道守備が十分でなくフランス義勇軍による鉄道線の攻撃を防ぐことが出来なかった
p180 鉄道が全く進撃速度に歩調を合わせることができなかった
それでもドイツ軍が勝利することができた理由として、フランスが豊かな農業国であること、ヨーロッパが1800年以来
はるかに豊かになった事実によって助けられ、現地調達によって食料を賄うことができた。
未だ弾薬の消費量は少なく補給に困難を生じなかった。
第四章
壮大な計画と貧弱な輸送と
ヨーロッパでは1871年から1914年にかけて人口と経済が急速に拡張した。
第一次大戦では軍隊の規模も大きくなり動員兵力が増加、弾薬の消費量も飛躍的に増え、補給がますます重要となる。
当初のシュリーフェン計画は補給が軽視されており、小モルトケが兵站面を大いに改善しているが、その分規模が縮小した。
まだ自動車やトラックの数が十分ではなく兵站駅から前線までの距離が遠くなるほど補給が困難となる状況であった。
第五章 自動車時代とヒットラーの失敗
ヒットラー政権になってからドイツでは自動車がかなり普及することとなったがそれでも陸軍の補給部隊を編成するには
全然足りず、自動車と同時に鉄道に依存することも多かった。
その鉄道もさまざまな困難(軌間の変更、ロシア産の石炭はそのままドイツの機関車で使えない、鉄道付属設備の不足や破壊等)
に直面して十分な役割を果たせず。
結局、資源が厳しく制限されている貧しい軍隊だったことが一番の原因ではあるが、その限られた鉄道や自動車をうまく管理
運用できなかったことが敗因と結論付けている。
第六章 ロンメルは名将だったか
北アフリカの戦いでドイツ軍が負けたのは十分な補給が受けられなかったのではなく、相応の補給を得ていたことが数字で実証されている。
敗因は、ロンメルが補給を考慮せずに攻勢作戦を取った為、補給港から前線までの補給線が延び、十分補給物資を前線に送ることができなかったこと。
元々、北アフリカには限られた地域を守る為に部隊を派遣したのであって、その目的であれば十分な兵力であり、攻勢に出たのは誤りであった。
第七章 主計兵による戦争
連合軍のオーバーロード作戦における補給状況。綿密な補給計画を立てていたのだが、予定通りにはいかず混乱することもあったが、
見積もりが過剰だったこと、積極的な攻勢を控えたこと等に助けられて深刻な補給不足に陥ることなく勝利することができた。
第八章 知性だけがすべてではない
1870年の普仏戦争の時になっても、弾薬は全補給必需品のうち取るに足らぬ比率を占めているにすぎなかったが、
第一次世界大戦の最初の数ヶ月で弾薬対他の補給品の比率は逆転、第二次世界大戦では食料は全補給物資の8ないし12
パーセントを占めるにすぎなかった。そのために、今や停止中の軍隊を維持するのは比較的容易になり、急速に移動中の
軍隊を維持するほうがほとんど不可能になった。
謎解き「張作霖爆殺事件」 加藤康男著 PHP新書 記2017/01/22
張作霖爆殺事件とは長年、日本軍の一部の軍人が起こした事件として歴史に刻まれている。
前から疑問に思っていたのだが、張作霖を倒して日本が何か得をしたのだろうか
むしろ、後継者の張学良は日本に反抗的であったし、昔からある満州問題は何も解決せず。
日本が謀略を企てたのではないかと疑われ、国際的に非難にさらされてなにも得るものが無かった。
この本では「マオ」の翻訳本(2005年)に書かれていた、「事件はソ連の諜報機関が日本人の犯行に見せかけて実行した」
という一文を元にさまざまな資料に当たりながら検証、推理している。
時々登場するイギリス情報機関の報告書も重要で、当時のイギリス情報機関でも日本軍の犯行に疑問を呈しておりソ連の可能性を疑っていたという。
第一章ではこれでもかと言わんばかりに、日本の一部の軍人が何故事件を起こそうとしたのか、どうやって計画したのか、
動機や犯行の場面を証言や手記を元に描いていて関東軍の謀略犯行説で疑い無いという様な状況となっている。
ただ、時々疑問に思われる点があり、それがわずかな手がかりとなっていく。
第二章では、コミンテルン説と張学良説が検証されている。
まずソ連謀略説だが、北満州に権益を持っている東清鉄道がたびたび張作霖の攻撃や妨害にあっており、ソ連は張作霖の暗殺を
ひそかに企てており、第一次暗殺計画は失敗している。
決定的な動機となったのは、1927年4月に張作霖の指示で北京のソ連大使館が捜索され多数の逮捕者と文書の押収があったことが挙げられる。
そのことが原因で日本の犯行に見せかけて張作霖を暗殺しようとしていたらしいことまでは分かっているが、それ以上のことは全く分からない。
ついで、張学良謀略説だが、張作霖の後継者として権力を握ってから、あれだけ国民革命軍の蒋介石と争っていたのにあっさり和平を宣言する。
それと、易幟の断行。一応満州は半独立状態だったのに青天白日旗が掲げられ満州が国民政府軍の支配下に入ったような状態となる。
張学良と楊宇霆は仲が悪いかのように思われていたが、共に極秘裏に国民党に入党しており張作霖を快く思っていなかったという。
推測だが、この二人が共謀して張作霖を爆殺したという仮説がある。理由として、イギリス情報部の報告書に「爆発は車両の上方で」といのがあるし
張作霖の正確な行動や位置がわからないと爆殺は難しいため内部犯行の可能性も高い。
どちらにしろ、日本人が深く関わっていたことに疑いは無く、どのようにしてソ連(もしくは張学良)が関与したのかが全く不明で主体的な役割を果た
したのは何者なのか謎となっている。この本では大きな衝撃とヒントを与えてくれており今後の研究が待たれる。
図書館で借りた本13(2冊) 記2019/11/02
誰が一木支隊を全滅させたのか ガダルカナル戦と大本営の迷走 関口高史著 芙蓉書房出版
戦史などではよくガ島に上陸した一木支隊先遣隊約900名はアメリカ軍1個師団相手に無謀な突撃をして全滅したというような事が簡単に書かれていて
悪い見本のような扱いを受けてきました。
著者はそこに疑問を持ち実際はどうであったのか色々な資料を調べて従来と違った視点から解き明かしていく。
P29 一木支隊の兵力
歩兵第二十八連隊本部、歩兵第二十八連隊第一大隊、連隊砲第一中隊、速射砲第一中隊、工兵第七連隊から配属された工兵第一中隊
及び師団通信隊と師団衛生隊、輜重兵連隊の一部などで編成されていた。
いくらミッドウエーという小島を占領する為に編成された部隊とはいえあまりの兵力の少なさに驚く。
連隊長が指揮する部隊なら通常は3個大隊、臨時編成の部隊にしても1個大隊基幹ではちょっと淋しい気がします。
理由としては、軍旗を奉ずる陸軍部隊を海軍の作戦に参加させたいという大本営の意向があった模様。
同時期アリューシャン列島攻略の為編成された北海支隊は同程度の兵力(ただし軍旗は無い)なのに階級の低い穂積松年少佐が支隊長となっている。
P52 なぜ一木大佐が選ばれたのか
上陸部隊の検討に当たってまず第七師団が選ばれる。第七師団は関東軍特別大演習に参加せず、上陸訓練も行っていた。
そして、その中から盧溝橋事件で活躍しており目立つ存在だった一木大佐率いる歩兵第二十八連隊が適任とされた。
周知のごとくミッドウエー作戦は失敗し、一木支隊はしばらくの間グアム島で待機することとなる。
その間にガタルカナル島が米軍に占領され陸軍部隊の派遣が決定、一木支隊も派遣されることとなり第十七軍に編入される。
第十七軍は元々FS作戦を行う為に編成された。ミッドウエー作戦が失敗しFS作戦も中止となり担当するのはポートモレスビーの
攻略だけとなっていた。そこへ急にガ島が米軍に占領されソロモン方面の作戦も担当することとなる。
P87 FS作戦予定時の敵兵力(6月末頃)
ニューカレドニア 米陸軍1個師団、豪兵200名、仏兵3700名 合計2万7000名 日本軍投入予定兵力南海支隊の約7倍の兵力
フィジー 米陸軍1個師団、ニュージーランド兵8000名、
合計2万3000名 日本軍投入予定兵力第十七軍主力の約3倍の兵力
サモア 米海兵隊1個師団の半分、 合計1万名 日本軍投入予定兵力歩兵第四十一連隊の約3倍の兵力
作戦は中止となったが予想以上に敵兵力が多い。しかも、攻略作戦というよりは進駐するという考えだったらしい。日本軍の認識の甘さに驚く。
P99〜ガダルカナル島に上陸した敵兵力を過少評価
当初は海軍情報部から「ガダルカナル島に上陸した米軍は1個師団、人員約1万5000名なり」というかなり正確な情報が伝えられていた。
だが、何故かその後色々な思惑が絡み(派遣部隊の士気に配慮、陸軍部隊を早く投入してもらいたい海軍側の事情など)次第に敵兵力を
過少評価していくことになる。
それと相まって都合のいい情報ばかりを取り上げて(第一次ソロモン海戦の勝利や海軍航空隊の過大戦果報告など)敵は消極的、撤退の公算が
大きいとの誤った敵情判断をしてしまう。
だが、第十七軍司令官百武晴吉中将と二見秋三郎参謀長は慎重な性格で大本営から送られてくる情報を当てにせず正確な情報を知ろうと努力する。
第十七軍にもガ島に敵が出現した時に海軍から「敵の勢力は空母1戦艦1巡洋艦4駆逐艦14輸送船25」との報告を受け、二見参謀長は「それなら敵は
1個師団ではないか」と言うが別の参謀は「米軍の乗船区分は贅沢に取られています。せいぜい歩兵1個連隊基幹かと」と即座に反応。
二見参謀長以外の参謀達は積極論者が多く敵を甘く見ていた。
第十七軍の間では議論が行われ一木支隊のような小兵力を派遣しても意味が無くしっかりと準備を整え、海軍の空母の護衛の下ガ島を奪還するとの
考えで百武中将も同意していた。しかし、大本営では敵の準備が整う前に一木支隊を即時派遣せよとの意向であった。
尚も慎重な百武中将は二見参謀長を海軍の第十一航空艦隊に派遣して敵情を聞くが、ここでも楽観的な話に終始しついに一木支隊派遣の決意に至る。
第十七軍司令官は13日午後3時、一木支隊長に命令下達する。
1.敵兵力は不明だが不活発である。本日まで飛行場を使用した形跡はない。
2.軍は敵の占拠未完に乗じ、海軍と共同して速やかにソロモン方面の敵を撃滅し、要地を奪還確保する。
3.一木支隊は海軍と共同してガダルカナル飛行場を奪還確保せよ。
やむを得ない場合、ガダルカナル島の一角を占領して後続の来着を待て。
このため、先遣隊約900名を編成し、とりあえず駆逐艦6隻に分乗してガダルカナル島に向かい前進せよ。
だが、命令の中には「やむを得ない場合、ガダルカナル島の一角を占領して後続の来着を待て。」と含みを持たせている。
百武軍司令官の本意もここにあって大本営の命令で一応一木支隊を即時派遣するが無理はしないようにとの配慮でこの真の趣旨を直接一木大佐に
伝えるつもりであったがそれはかなわなかった。
P129 代わりに松本参謀が派遣され一木大佐に「先遣隊のみで敵飛行場奪還に固執することなく後続を待ってもよい、敵兵力は最悪1万はいるかもしれない」
と一応必要な事は伝えてはいるが、命令では速やかに要地を奪還せよとあり一木支隊長は早く行けと言われたり慎重にと言われたりと困惑している。
P136 一木支隊の将兵は戦意旺盛であった。そこへ新たに駐ソ日本大使館付陸軍武官から情報が入る。「ガダルカナルに上陸した敵は兵力約2000で戦意旺盛ならず
ツラギに向かい逐次後退中。また米軍のガダルカナル島上陸の目的は単に飛行場の破壊にある」とのことだった。
これで敵は簡単に蹴散らせると思い込み勝利を疑わなかった。
P143 ガダルカナル島に上陸
8月18日午後9時、一木支隊は全員無事にタイボ岬に上陸する。ルンガ飛行場まで35kmの地点。
兵力は、兵員916名、軽機関銃36丁、擲弾筒24丁、重機関銃8丁、歩兵砲2門、九九式小銃350丁、個人携行弾薬150発、重機関銃弾薬1重辺り2400発、
歩兵砲弾薬1門辺り約50発、糧食は一人辺り乾パン3袋、精米6合。その他工兵中隊の火炎放射機18機、対戦車爆破用の吸盤爆雷多数、破壊筒など。
慎重に行動するか迅速に行動するか迷っていた一木大佐であったが、結局第二梯団を待たず迅速に行動することとなる。
海軍部隊の案内でテテレまで前進、そこで大休止として将校斥候を派遣する。
P160 将校斥候がコリ部落を出た辺りで敵の待ち伏せに会い全滅したとの報告を受ける。
将校斥候を指揮していた渋谷大尉は敵を味方の海軍部隊だと思い込み声をかけている間にやられてしまい部隊は散りじりとなりほぼ全滅状態となる。
しかし伝令からの報告では生存者がいることがわかり樋口中隊を救護班と共に救援に向かわせる。その後、一木支隊主力も前進する。
午後8時を過ぎたころ、樋口中隊はコリ部落に到着。生存者1名を収容、他の者は全員戦死しているのが確認された。
P181 尚も前進する一木支隊
午後10時、支隊主力もコリ部落に到着。一木大佐は将校斥候が全滅したことに強い衝撃を受け動揺を見せるが、遺体の処理を命じて
レンゴに向けて更に前進する。途中、原住民の道案内があり20日午前2時30分レンゴに到着、大休止する。
大休止の間レンゴから更に3kmほど進んだ辺りに警戒部隊を配置。一木大佐は思案の結果、食料も少なく斥候として兵力を小出しにして損害を増やすよりはと
「行軍即捜索即戦闘」という方針に決する。20日午前10時攻撃計画を示達。
P191 イル川渡河戦
20日午後6時 一木支隊は予定通り行軍を開始。午後10時30分、最後の川を渡り終えたころ、突然敵の一斉攻撃が始る。
これまで原住民に道案内をさせていたのだが、敵が待ち伏せているところに誘導されていたのだ。
しかも、最後の川だと思っていた川がテナル川で更に奥にはイル川があった。
イル川の向かいに敵が陣取っており、一木支隊長は明るくなる前に何としても川を渡って敵陣地に突入しようとするが、
得意の夜間攻撃のはずが照明弾を打ち上げられて効果なく敵も周到に準備して陣地を構築して待ち構えており
どうしても突破できず次々と倒れていく。一木支隊長はついに突撃を諦め突撃中止命令を出すが混乱を極め命令がなかなか伝わらない。
21日午前5時を過ぎたころ、辺りが明るくなったと同時に敵の戦車の音が聞こえてくる。
一木支隊長は前線視察をするといい前方を見渡せる台上に上ったところを撃たれて戦死してしまう。
戦車とさらに飛行機まで出現し完全に包囲されて残った将兵はタイボ岬まで後退することになるが多くは戦死してしまう。
軍旗を守っていた伊藤少尉も敵の重囲に陥り午後3時ごろ軍旗を奉焼して自決する。
生き残ったのは輸送隊や将校斥候の遺体の埋葬を行っていた小隊や直接戦闘に参加しなかった兵隊などが殆どで80名程になっていた。
P221 一木支隊全滅の責任問題
大本営の作戦指導が悪かったとは認めるわけにはいかないため、一木支隊長の戦闘指揮が悪かった為責任を感じ自決したということで
決着させようとしたらしい。
P262 日本軍は「任務重視型」の軍隊、米軍は「情報(環境)重視型」の軍隊
「情報(環境)重視型」の軍隊が作戦環境に応じて任務、編成装備や戦闘要領などを修正し、状況に適合していこうとするのに対し、
「任務重視型」の軍隊は情報を不確定なマージンと捉えて重視せず、与えられた戦力で与えられた任務をいかに遂行するかを第一に考える。
一木支隊が全滅したのは、上級司令部より示された条件の下、無理に任務を達成しようとした結果全滅したのではないかと著者は推察している。
一木支隊長は歩兵の指揮に精通しており歩兵操典や作戦用務令に示されている攻撃要領の通りに行動するはずであり、猪突猛進するような
指揮官ではない、極めて勇敢で、しかも用意周到な人物であったなどの証言も紹介されている。
私的見解を述べると、一番悪いのは大本営だろう。あまりにも楽観的で敵の兵力を低く見積もり敵が逃げる前に一木支隊を早く派遣せよと急き立てる。
次に悪いのが海軍、命令では「海軍と共同してガダルカナル飛行場を奪還確保せよ」とあるのに一木支隊を送り届けただけで後は何の支援も無い。
それに、積極的に敵の輸送船を攻撃しようとせず、軍艦ばかり狙っているし陸軍を囮として敵空母を誘い出して撃滅しようという考えまであった。
まだ、制空権も制海権も敵に完全に奪われてはいなかったので、駆逐艦の艦砲射撃の支援ぐらいはあっても良かっただろう。
それと、海軍の誤った敵情判断。陸軍としてはこの方面では海軍の情報に頼るしかなかったのに正確な情報が伝わっていない。
疑問なのが一木大佐の行動。一応第二梯団を待たず前進するのは理解できるし、将校斥候を派遣するというかなり慎重な行動をとっている。
しかし、将校斥候が全滅するというただならぬ事態に直面して完全に気が動転してしまったのだろうか。
その後、何故か斥候を出すのを止めて「行軍即捜索即戦闘」という方針に替えて前進する。
このまま何の成果も無く多くの将校や兵を死なせて引き下がるわけにはいかないと思ったのかもしれない。
ここで問題なのがコーストウオッチャーと呼ばれる原住民で構成される民兵組織の存在。一木支隊の行動は刻々と米軍に知られてしまっていた。
更に人懐っこい原住民に心を許して道案内を信じてしまった結果、敵陣の前にまんまと誘導されてしまった。
一木大佐としては、事前に知らされていた敵兵力は少なく撤退しつつあるとの情報を信じるしかなく敵の攻撃は熾烈だが何とか突破できるだろうと
思っていたのかもしれない。だが、敵の兵力は予想以上に強大で撤退も出来ず包囲されて全滅してしまう。
これが著者の言う「任務重視型」の軍隊の特性として上級司令部より示された条件の下、無理に任務を達成しようとした結果になったと思う。
もうすでに「やむを得ない場合、ガダルカナル島の一角を占領して後続の来着を待て。」という言葉は眼中に無く何とか成果を上げねばと必死に
なっていたのではないかと思う。
責任感の強さと将兵の勇敢さが仇となって引くに引けない状況となり全滅と言う最悪の結果を招いてしまったのかもしれない。
太平洋戦争のロジスティクス 日本軍は兵站補給を軽視したか 林譲治著 学研
一般に日本陸海軍は兵站補給を軽視してきたといわれている。
しかし、著者は兵站補給に失敗したのであって、兵站補給はむしろ重視していたと結論している。
そこで、日本軍が兵站補給を重視していたのなら何故失敗してしまったのかというところからこの本は始る。
P18 ロジスティクスの定義は広範囲に及ぶ為、本書では「補給・整備・輸送・行政管理」などについて扱い、これを「兵站補給」の意味とする。
P21 陸軍は日華事変の直前で17個師団、太平洋戦争直前までの4年間で51個師団まで増大する。
更に太平洋戦争開始から終戦までの間に増設された師団数は末期の本土決戦師団を含め120個師団弱であり、総兵力は約547万人といわれる。
海軍は満州事変当時は約7万8000人程度であったが、終戦時には総兵力は約169万人、陸海軍合わせると716万人の兵員が存在した。
P24 兵站補給の目的は「必要な時に、必要な物資を、必要とされる場所に供給する」ことである。
兵站補給のわかりやすい概念図が載っているが、文字で表すと陸軍の場合
各留守師団管区兵站基地→集積基地→海軍基地(ここまでが内地)→海(海上輸送)→(ここから外地)海運主地→集積主地→兵站主地
→兵站地→兵站末地→軍(師団)野戦倉庫→糧秣交付所又は作戦部隊となる。
文字だとわかりにくくなってしまうが、かなり複雑精緻となっている。(海軍は陸軍ほど複雑ではない)
P40 海軍将校がよく利用する水交社というのはよく聞くが、下士官兵の為に作られた海仁会という組織があったことを初めて知った。
酒保などの物品も海仁会が仕入れていたらしい。その代わり下士官兵から拠出金を募っている。
P45 兵站各地の役割
集積基地「内地の主要の地点に設け、同地に必要の機関を置き、補給諸廠及び留守部隊より出征部隊に輸送すべき軍需品を集積し需要の緩急を
考慮してこれを集積主地などに前送し、また出征部隊より還送し来るものを各、目的地に分送する業務に任ず」
海運主地「外地主要の港湾にこれを設け、通常船舶輸送の端末における中継基地と為す」
集積主地「戦地又は外地主要の地点に設け、同地に集積主地、諸廠その他必要の機関を置き集積基地等より出征部隊に前送すべき軍需品を集積し
需要の緩急を考慮してこれを兵站主地に前送し、又出征部隊より還送し来るものを収容、整理し或いはこれを集積基地等に後送する業務に任ず」
兵站主地「軍作戦地域内の交通便利なる地点に設け、同地に通常兵站司令部、軍補給諸廠、兵站衛生諸機関その他必要の機関を置き、軍需品の集積
管理、前送、後送及び修理、傷病人、馬の収療等の業務を実施し軍補給の原点を形成す」
兵站地「兵站地区司令部、同支部又は出張所の位置するところにして輸送機関その他通行人馬の宿泊、給養及び診療、警備、交通、通信施設の保護等
の業務に任ず」
兵站末地「兵站末地その他必要なる兵站地には、所要に応じ軍補給諸廠の支廠又は出張所、兵站衛生機関、通信所、野戦郵便局又は同分局等を開設する」
ガダルカナル島の攻防戦を例にすると、兵站主地はラバウルに、兵站地はショートランドに、ガダルカナル島には野戦倉庫が設置されていた。
P58 兵站補給の負担を軽減する目的で現地調達も行われます。現地調達というと安易な方法と思われがちですが、実際は入念な調査や手順を踏んで行われている。
割合として、米などは10〜20%、肉類などは15〜30%前後、生鮮野菜の類は80%ほどが現地調達されていた。
P60 行李とは、軍の各部隊に附属する機材(弾薬・衛生材料・糧秣・器具等)などの荷物をいうが、同時にそれらを運ぶ部隊も行李と称する。
これらは歩兵大隊以上の部隊に所属する。戦闘に直接関わる弾薬や機材を輸送する行李を小行李もしくは前方行李という。
宿営・給養に関する物資や糧秣(該当部隊の人馬1日分)を輸送する行李を大行李もしくは後方行李といった。
砲兵部隊と戦車部隊は行李とは呼ばず弾列と称した。行李は輜重兵連隊とは別で、師団隷下の連隊・大隊などの部隊が自前で保有する専用の輸送部隊。
歩兵大隊の場合では、大行李と小行李がそれぞれ一隊編成されていた。
P61 行李と輜重兵連隊の役割
行李
「野戦倉庫や交付所などから各部隊間への輸送を行う」
輜重兵連隊「方面軍・軍直属の自動車隊などの兵站部隊の輜重兵が野戦倉庫充実用の物資を兵站地から兵站末地へ、師団の輜重兵連隊が兵站末地から
野戦倉庫への輸送を行う」
P71 各国の補給物資の割合
アメリカ陸軍は兵士一人当たりの平均にすると、1日に25kg弱の補給物資を必要としていた。その内訳は、50%が弾薬、36%が燃料、残りが食料やその他の軍需品
ドイツ陸軍では、兵士一人当たりの必要補給量は約13kg弱、このうち40%が弾薬、38%が燃料(馬糧も含む)、残りが食料やその他の軍需品
日本陸軍に関しては同じ計算法によるデータは見当たらないが、相対的に弾薬の量が少なく、積極的な戦線以外では1kg未満、対して糧食は2kg前後という
見積もりがある。仮にこの見積もりを信じる限り、日本の補給の中心は糧秣だったことになる。
また、ある経理部将校の証言では戦地への追送物資の80%が経理部担当で、残り20%が兵器弾薬の類。そして80%の経理部担当物資の60%が糧食であった
という。つまり、日本陸軍の追送物資のほぼ半分は糧食だったことになる。
P75 当時は輸送などに多くの馬を使っていたので、兵食と同様に馬糧の確保も重要だった。
例えば日華事変頃の装備の充実した甲師団を例にすれば、兵員2万5179名に対して馬は8177頭が定数とされ、大戦中の治安師団でさえ兵員1万1627名に
対して1023頭の馬(ただし自動車は92台とされる)が必要とされていた。
P81 急増した兵力量と根こそぎ動員の結果として日本国内の農業生産量の低下により糧秣廠の負担増加
労働力配分比を見てみると、軍需生産のピークを迎える1944年で、軍需生産が39%、民需生産が21%、農業生産は40%
同時期のアメリカは、それぞれ35%、48%、17%であり、日本の農業生産が少なくない労働力を必要としていた。それだけ根こそぎ動員が農業生産に与える影響は
深刻だった。さらに戦局の悪化に伴い海上輸送路の安全が確保できなくなったことは食糧事情の悪化に繋がってゆく。結果的に糧秣に関して日本陸海軍は現
地調達に頼らざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
P83 軍用缶詰は牛肉で6年、魚肉で3年の保存期間があった。
P98 南方地域別産油高(1940年)
スマトラ5,208,700トン、ジャワ839,500トン、セヲム93,250トン、ニューギニア4,400トン、ボルネオ2,725,631トン、ビルマ1,098,184トン、総額9,969,665トン
P144 1939年(昭和14年)3月、かつて輜重輸卒と呼ばれていた輜重兵特務兵が輜重兵二等兵に改称される。
それまで輜重兵特務兵が進級する制度が無く、待遇としては二等兵のままであった。日華事変では本来後方にいるはずの輜重兵が戦闘に参加する
機会が多くなり、第一線部隊への直接補給を重視するようになった為、この改正で輜重二等兵は他の兵科と同様に進級することが可能となった。
P156 開戦前の日本は2445隻、639万総トンの商船を保有していた。この中で375隻、190万トン(1隻当たり約5000総トン)の大型商船が陸海軍の輸送船として
動員されていた。そして残り2070隻、449万総トン(1隻当たり約2169総トン)の船舶の中で大型優秀船を中心に340隻、140万総トン(1隻当たり約4100総トン)
が海軍の特設艦船籍に入れられる。ちなみに全体の中で陸海軍以外の船腹量は1730隻、309万総トン(1隻当たり約1786総トン)となる。
これらの中で物動用の船舶は176万総トンに過ぎなかった。
P160 太平洋戦争開戦時の日本のタンカーは108隻、49万2322総トンを保有していたが、海軍はその中で45隻、32万7533総トンを徴傭していた。
P168 日本の1000トン以上の商船には海軍暗号書Sが配布されたが、これは比較的簡単に解読され、米海軍潜水艦の作戦に大いに寄与したという。
P170 連合軍の輸送機C-47は10万機以上生産されていた。日本が生産した飛行機は全部で7万機弱、その中で輸送用に用いられたのは2500機に満たない。
P181 太平洋戦争期の日本軍の保有自動車は戦地での鹵獲車両(1万台前後)を含めても概ね8万台前後であった。
太平洋戦争中に日本で製造されたトラックは軍用・民生用合わせて約10万数千台であり、半数以上が軍用であった。
日本陸軍地域別トラック数、満州・朝鮮1万7000台、中国2万台、フィリピン3500台、南方2万6000台、ビルマ3500台、太平洋諸島3000台、
合計7万3000台。米軍、太平洋10万2000台、太平洋含め合計38万台。
P201 日本軍の鹵獲車両は1942年で約1万5000台、43年で9000台、44年で9800台、45年の終戦までで3800台と、終戦までの総計は3万7600台にも上る。
P226 日本国内で軍馬としての働きが期待できる馬匹は1935年の時点ですでに150万頭を数えていた。これに満洲の数十万頭がプラスされる。
陸軍経理学校の資料によれば1頭の馬が曳くタイプの輜重車(馬車)の積載量は最大で280kg。対する自動車では96式6輪自動貨車で1.5トンの
最大積載量となる。つまりトラック1台は馬1頭の輜重車の5倍以上の積載量を持つ。
P249 日本陸軍は南方作戦に備えて近衛師団、第5師団、第48師団を自動車師団として再編成していた。この自動車化された3個師団のうちの2つが、
マレー作戦を担当する第25軍に編入されていたことになる。この第25軍を構成する師団のうち自動車化編成の近衛師団、第5師団はそれぞれ663台と
859台の自動車を有していた。第18師団は普通の歩兵師団であったが、マレー攻略作戦時には編制上は約500台近い自動車を有していた。
つまりこの3個師団だけで、2000台以上の自動車を保有していたことになる。
P257 第25軍作戦課長だった池谷氏の証言によればマレー作戦は「作戦日数55日、1日平均20kmを進撃、交戦回数95回、1日平均2回、橋梁修理250橋、
1日平均5橋」という状況であった。
P267 インパール作戦で計画されたジンギスカン作戦の具体的な中身は「各人7日分、中隊分担8日分、駄馬4日半分、各連隊牛250頭で連隊の2日分を携帯し、
牛を喰って3日分、計25日分」という計算であったという。
図上演習では、イギリス軍は戦車を出さないという不自然な想定で行われたが、このためか対戦車砲も運ばれなかった。
P276 日本軍の物量計算には会戦分という概念が使われる。概ね1会戦分とは部隊が3〜4ヶ月活動できる軍需品の量を表す。
P285 1958年の「国民所得白書」によると、日本のGNPは1940年を100としたとき、40年100、41年101、42年103、43年103、44年99となる。
日本の生産力そのものは、じつは開戦以降ほとんど増えていない。その状況で師団だけが増えている。
P295 陸軍の総師団数は41年末の時点で51個、42年末で58個、43年末で70個、44年末で99個師団になっていた。45年以降に70個師団以上も乱造される
本土決戦師団を数に入れないとしても、、約100個師団が戦争末期には存在していたのである。太平洋戦争前後で比較しても2倍の数だ。
ところが、日本軍が保有する自動車の数は太平洋戦争開戦から終戦までの間で、鹵獲自動車も含め、7万から8万台前後で推移していた。
従って師団の輜重兵連隊の自動車数は、単純計算でも開戦時の標準の半分以下になる。
じじつ戦争後半に新設された師団では、輜重兵連隊編制をとることができず、師団輜重隊、もしくは輜重兵中隊で対応していた。
自動車が無ければ軍馬となるが、軍馬は量産が利かず、急激な師団増加には対応できなかった。
P297 日本軍が兵站補給で失敗した最大の理由は、国力を無視した師団の増設、戦線を拡大し続けたことにある。
陸海軍に限らず部隊の急増は、個々の部隊の質を低下させる。そうした状況で兵站補給のように、すべての過程で高度な専門技能が必要な作業を
行っても、成功はおぼつかない。インパール作戦に投入された師団とマレー作戦に投入された師団は共に3つ。
そして数だけをいうならば、マレー作戦に投入された兵站補給関係の部隊よりもインパール作戦に投入された兵站補給関係の部隊の方が多かった。
ただ、後者の部隊には質が伴っていなかった。
全体の師団数が急増しても、兵站補給システムの構造はほとんど変化していない。マレー作戦もインパール作戦も状況は変化しているにもかかわらず
仕事の流れはまったく同じである。言い換えるなら、戦場の環境はすでに違うのに、通常の戦争の枠内にそれを収めようとしたわけだ。
日本陸海軍は、敗戦まで日露戦争に特化した体制から脱却することなく、新たな環境に適応し、体制変革を行うことに失敗した。
よく日本軍は補給を軽視していたとか補給がダメだったから戦争に負けたとか言われる割りに、具体的な兵站補給関連の書籍が少ないので
この本は非常に勉強になりました。
日本軍には一応しっかりとした兵站システムが存在したことがわかったし、貴重な統計数字がたくさん出てきたので興味深く読むことが出来た。
正直、日本軍は補給を軽視していたのか単に失敗しただけなのか何ともいえないが、著者が指摘しているように本来インパール作戦のような多くのものが
反対していた作戦が何故か強行されてしまったような日本軍の体質に多くの問題があったと思われる。
レイテ戦記(上) (中)
(下) 大岡昇平著 中公文庫 記2019/11/10
レイテ戦記(上)
以前より有名な戦史で昔テレビなどで取り上げられていたのを思い出します。文庫化されたときに買っておいたのを最近読み始めました。
フィリピンには第14軍が防備に当たっており、主力としては第16師団が有り残りは第30、31、32、33独立混成旅団が配置されていた。
フィリピンに米軍が侵攻してくるまでは主にゲリラ討伐を行っていた。昭和19年4月5日に第16師団はレイテ進出を命じられる。
P16 第14軍司令官は黒田中将でフィリピンの防備を全く施しておらず、フィリピン独立の政略に重点を置きゴルフばかりしていたらしい。
P27 アメリカ軍がマリアナに攻めてきた際に陸軍は本格的にフィリピンの防衛をおこなうようになるのだが、重点を「比島航空要塞化」いわゆる
「十一号作戦」におき防御陣地構築が二の次となっていた。
この時、黒田14軍司令官は「これまでの実績を見て飛行場は敵の為に作ってやるようなものだ」と的確な意見を述べている。
P30 フィリピンのゲリラ
フィリピンのゲリラの歴史は古く1521年にマゼランが殺されている。その後もスペインに対して、米西戦争後アメリカが統治するようになって
からはアメリカに対してゲリラ活動が続いていた。アメリカによる武力討伐と一応は穏健に思える形の統治によってゲリラ活動は弱まるが、
依然反米ゲリラは存在していた。アメリカはフィリピンを農業国の原料生産国に止めておくという植民地政策を堅持している。
アメリカの国力は日に日に増大しているにもかかわらず、フィリピンの人口増加は10%、文盲率50%、土地の80%はアメリカ資本と結びついていた。
日本の軍政に協力した人達の一部はこの反米ゲリラと思われる。しかし、新たな統治者となった日本にも反抗するゲリラが多く生まれている。
その主な原因が、日本がフィリピンを攻略した時に一悶着あって米比軍全軍に降伏命令が伝わらず、あるいは降伏を拒否したことで、武器を持ったまま山中に
潜伏してゲリラ戦を展開する。日本軍は徹底的なゲリラ掃討作戦を行わず他方面へ兵力を送ってしまった為、後の戦いで不利な状況になってしまった。
当初、レイテに配置されていた第16師団はあまりに早く米軍に飛行場を明け渡して壊滅的打撃を受けたのでしばらくの間相当批判を受けていたらしいのだが、
生存者が殆どいなくその戦いぶりを伝えるものもなかったのでしかたないとはいえあまりに不憫だと感じた。この戦記では米軍側の資料で第16師団の戦いぶりが描か
れているのだが、圧倒的な兵力の米軍を相手に所々ではあるが奮戦していた部分が垣間見える。幾分名誉を回復できたと思う。
しかし、制空権も制海権もろくにない状況でレイテ決戦を行おうと続々と増援部隊を送り込むのだが、ガ島の再現のようなありさまでろくに成功せず多くの兵員や物資を
失ったのはいただけない。海軍が台湾沖航空戦で大勝利を宣伝していたので騙された感じではあるが、すぐに方針転換してルソン決戦にしておけばと悔やまれる。
そのなかでも、奇跡的に第1師団だけはほぼ無傷でレイテの上陸に成功。リモン峠でかなりの奮戦を見せる。
レイテ戦記(中)
第14方面軍司令官山下将軍はルソン決戦を希望していたのだが、南方総軍や大本営はレイテ決戦に執着していた。
レイテに兵員や物資を送る輸送作戦を多号作戦と言う。制空権もろくにない状態で輸送を強行したので多少の成功はあったが結局かなりの損失を出している。
成功したとしても人員はともかく陸上輸送力が不足しており、物資を揚陸地のオルモックから前線に送る前に爆撃で消失して前線にはあまり届かなかった。
最終的に米軍がオルモックに逆上陸してきて日本軍の補給拠点が奪われて作戦は失敗に終わる。第1師団が伝統ある師団で精強だったのは間違いないが、
武器や弾薬や食料がちゃんとあれば日本軍は補給が続く限り十分に米軍と渡り合えたことを証明しているといえる。
P82 当時定められていた1個師団の1日の補給量は、糧秣、弾薬、ガソリン等合計150トン(そのうち100-120トンが弾薬)3個師団(第1、16、26師団)が戦闘するためには、
毎日少なくとも450トンを輸送しなければならなかった。
P194 レイテに増援された部隊で第68旅団というのが出てくる。詳細はよくわからないが満州の公主嶺で養成され自動小銃などの最新装備を持ち、上等兵以下の兵は
一人も居ないという精鋭部隊だったらしい。興味深いので記しておく。
レイテ戦記(下)
補給が完全に途絶え戦力も低下して西側へ転進することになるが、米軍側も西側へと進撃を急いでおり両軍が併走する形となって錯綜した状態となる。しかし、西側の
海岸線まで米軍側に押さえられてしまうと日本軍側としては完全に逃げ場を失うことになる。奇跡的にレイテ島から脱出に成功した部隊もあるが、大部分は逃げ場を失い
現地で戦いながら自活することになるが、ジャングルや山中に逃れてもフィリピンではゲリラが多いのでやられてしまう場合が多く生存者は少ない。
ページの1/3ぐらいは年表、編成表、索引などで占められている。
第35軍司令官鈴木宗作中将について
陸軍大学を主席で卒業するような優秀な軍人がなんでこんな最前線の指揮官に任命されたんだろう、本気で勝算があったからあえて優秀な指揮官を選んだのだろうか?
ともかく、第35軍はレイテのみではなくビサヤ諸島やミンダナオ島など広範囲の部隊の指揮も任されていたので当然のごとく鈴木中将はレイテ島からの脱出を図る。
セブ島までは無事に脱出できたが、さらに遠いミンダナオ島までの脱出を図ることになる。理由は地積も広く部隊や在留日本人も多く永久持久できると思われたため。
鈴木王国構想もあったらしい。
小さなバンカーに乗っていたのでネグロス島の沿岸沿いに航行、何度かゲリラの襲撃を受けるがたった一門の擲弾筒が敵を追い払って難を逃れている。
あまりに無謀かと思われたが、実際あと少しでミンダナオ島にたどり着けるところまでいったのだが、潮の流れが邪魔して目標地点に到達できずそうこうして
いるうちに敵機に補足されて戦死してしまう。
戦後のフィリピン
日本が戦争に負けてからアジア諸国は再び元の宗主国だったヨーロッパ諸国に再植民地或いは独立戦争を戦うことになったがアメリカが統治していたフィリピンでは
戦前の約束もありすぐにフィリピンを独立させた。このあたりは賢明な判断と思われるが、独立と引き換えにベル通商法という条約をアメリカとフィリピンは結ぶ。
この条約はアメリカにかなり有利な条約で実質アメリカの経済植民地とされてしまった。
歴史群像No.158 2019年12月号 日本陸海軍100オクタン燃料始末記 古峰文三著
学研 記2020/03/17
オクタン価についてよく書かれていて勉強になったのでまとめてみた。
オクタン価とは簡単に言えば燃料の着火しにくさを表す数値で、高回転、高圧縮の運転条件でも混合気が異常燃焼(ノッキング)を起こさず運転できることを示す指標である。
一般的にオクタン価の数値が高いほどアンチノッキング性能に優れているとされる。
航空機は軍艦に比べて燃料の消費量が少ない
大和型戦艦1隻には最大約6400tの重油が搭載されるが、これは同重量の航空燃料があれば燃料満載の零戦が8000回は出撃できる数字だ。
太平洋戦争中に艦隊が燃料不足で行動を制限されても航空作戦が制限を受けなかった理由は、まさに消費量の少なさにあった。
誉エンジンは100オクタン燃料の使用を前提に作られていた。
四式戦闘機疾風は日本側資料では最大速度が時速630kmであったが、ハ45(海軍名誉21型)エンジンでは全力運転を禁じられていた。
アメリカ軍の手に落ちた鹵獲機はオクタン価100の高性能燃料を使用して時速687kmを発揮している。
オクタン価100の燃料を大量生産できなかった日本では、日本陸海軍の戦時規格燃料であるオクタン価91の「航空91揮発油」と水メタノール噴射の
組み合わせで対処していたが不調であった。
日本陸海軍の発動機の大馬力化と所要オクタン価
海軍名称 最大出力 燃料オクタン価/必要オクタン価 装備機種
寿40型
800馬力
85オクタン/92オクタン 96式艦上戦闘機、97式戦闘機
栄12型 950馬力
87オクタン/92オクタン 零式艦上戦闘機21型、一式戦闘機1型
栄21型 1150馬力
92オクタン/95オクタン 零式艦上戦闘機52型、一式戦闘機2型
誉21型
2000馬力 91オクタン水噴射/100オクタン 紫電改、四式戦闘機
金星62型
1500馬力 91オクタン水噴射/100オクタン
零式艦上戦闘機54型、キ100
日本陸海軍の航空燃料
原料油(主にカリフォルニア原油) → 熱分解→四エチル鉛添加 → 航空92揮発油 → 備蓄消滅で供給停止
原料油(一般) → 熱分解 → 接触分解(主にUOP法) → イソオクタン混合 → 四エチル鉛添加 → 航空91揮発油
100オクタン燃料製造の失敗
100オクタン燃料の製造法としてUOP法とフードリー法の2つがあったがUOP法よりフードリー法の方が有力らしいことがわかり導入しようとアメリカの企業と
交渉に入ったところで「道義的輸出禁止令」が発令されてしまい挫折する。
それでも独自にフードリー式の研究とプラントの建設、100オクタン達成に必要なイソオクタン製造を東亜燃料工業が行い「東燃式」によって100オクタン燃料
が量産できるかもしれないとの希望によって昭和15年度に試作発注がなされた大馬力航空エンジンは使用燃料がオクタン価100とされた。
昭和16年末には、100オクタン燃料実現までの代替手段として91揮発油に水噴射(水メタノール噴射)を公称以上の運転条件で使用して100オクタン燃料の
代用とする方針が決まった。しかし結局終戦まで100オクタン燃料の製造はかなわなかった。
南方での航空燃料製造
蘭印の製油所は奇襲攻撃によって設備をあまり破壊されずに日本軍が鹵獲することに成功。
この設備によって100オクタン燃料が製造されており、一部の航空部隊には100オクタン燃料が使われていた。
航空揮発油の消費量と在庫(単位キロリットル)
年度 消費量 在庫量
昭和14年 174,000 133,700
昭和15年 204,600 202,600
昭和16年 361,500 633,200
昭和17年 633,200 669,200
昭和18年 836,900 561,800
昭和19年 749,440 371,400
昭和20年 132,000 244,600
図書館で借りた本14(2冊) 記2020/11/05
日本軍と日本兵 米軍報告書は語る 一ノ瀬俊也著 講談社現代新書
アメリカ軍から見た日本軍と日本兵について書かれた本で、実際に日本軍と戦っている部隊向けに作られた広報誌が元になっている。
誇張やプロパガンダは少なく、かなり客観性が高いと思われます。
ただ、アメリカ兵の士気が下がらないようにと自信を持たせるような配慮がなされている点は注意が必要。
新しい発見が多くありました。例のごとく気になった点を列挙。
P9 本書の意義
米陸軍軍事情報部が1942〜1946まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌「情報広報」に掲載された日本軍とその将兵、装備、士気に
関する多数の解説記事などを使って、戦闘組織としての日本陸軍の姿や能力を明らかにしてゆく。
P22 日本兵の体格
平均的なアメリカ兵は日本兵よりも背が高く重い。彼の身長はおよそ172.7cm、体重は68.0〜70.3kgである。
平均的日本兵は身長161.3cm、体重52.6〜54.4kgである。よって米兵は身長で4.5cm、体重で13.6〜15.8kg勝っている。
P25 日本人と中国人の区別に苦心
当時、中国軍はアメリカ軍の味方であったので日本人と中国人の識別をする必要があったのだが、気休め程度の識別法しかなくほぼ不可能であった。
P32 日本軍は射撃規律が良く集団戦法に強い。個人射撃は下手。虚を突かれたり奇襲されるとパニックに陥る。
集団戦法に強いというのは何となくわかる。体格に劣る日本軍が強かったのは組織力や団結力によるところが大きいだろう。
個人射撃が下手というのが度々出てくるのが気になった。弾薬が少なく散発的にしか撃てないから?
虚を突かれたり奇襲されるとパニックに陥るというのはどこの軍隊でも共通と思われる。
P40 日本兵は銃剣戦、格闘戦に弱い
日本兵は銃剣戦において突きばかりで、銃床で殴ってくる相手に苦戦している。
広報誌にも「日本兵の剣術は突きばかりで、格闘に弱い」と書かれている。
昔の日本人は柔道や剣道を習っていて軍隊でも銃剣術や白兵戦の訓練を盛んに受けているのでそれなりに強いかと思っていたが意外であった。
やっぱり体格差が決定的な差だったのかもしれない。銃剣訓練も突き一辺倒で問題もあっただろう。
P75 アメリカ軍は日本兵捕虜を取りたがっていた
捕虜は情報を得るのに有用であり、米兵の命も助かるので自軍将兵に捕虜獲得の重要性を強調している。
だが、捕虜を取りたがらない米兵がおり、それが日本兵の投降を妨げ、結果的に自軍の損害を増やす一因となっている。
P79 捕虜の割合
戦争初期のころ、生きて捕まる日本兵はまれで、戦死者100人に1人の割合であった。沖縄、フィリピン作戦の後半では死者10人に1人の割合で捕虜に
なっている。自発的に投降して無傷で捕まる兵、将校の割合も増加している。
P84 日本兵捕虜は協力的
色々本を読んでいるとしばしば日本兵捕虜はアメリカ軍に協力的といったことが書かれていて不思議に思っていたがこの項を読んでみて妙に納得してしまった。
捕虜になったら虐待されて殺されると思っていたのが親切にされて命が助かるとなると恩を感じてしまいそれに報いようと積極的に協力してしまうということのようだ。
日本人の国民性が悪い方に向いてしまったのもあるし、捕虜になった場合の対処方法など当然のごとく教育して無かった結果でもある。
P88 留守家族
日本兵の給料はとても安いのに兵士たちの留守家族はどうやって生活していたのか。
留守宅に関する兵士の安心感は、隣人たちが家族の農作業を手伝うことにより高められる。夫人、在郷軍人など多様な団体もまた留守宅の面倒を見る。
なので、捕虜になったり不名誉なことがあると家族に迷惑がかかると思い勇敢に戦う理由となった。
P90 日本兵の生命観
戦死者に対してはものすごく丁重に扱うのに、負傷兵や傷病兵に対する扱いが酷いのは対照的。
物資や医薬品の不足もあるが、金が無いからという理由で医療が軽視されていたらしい。
P119 戦争前半の日本軍に対する評価 ガダルカナル・ニューギニア・アッツ
日本軍の常套戦法として、浸透戦術、包囲、もしくは側面攻撃を多用している。初戦ではこれがうまくいき勝利を重ねてきた。
しかし、途中からアメリカ軍の火力の前にこれまでのハッタリともいえる奇襲的な戦法が通用しなくなる。
守勢に回るようになってからは防御陣地にこもり粘り強く戦うようになる。特に活躍したのが機関銃陣地と狙撃兵だったようだ。
日本軍が一番怖かったのは米軍の戦車であった。戦車の接近を許した陣地は次々と潰されていった。
P173 戦争後半の日本軍に対する評価 レイテから本土決戦まで
日本軍は白兵突撃一本鎗ではない。全滅するまで陣地を守り続ける戦法を取っており、撤退命令もなくどうにもならなくなった時にバンザイ突撃と呼ばれる
自暴自棄な突撃が行われる。
日本軍の遊撃戦術は44年後半ごろの日本陸軍の標準的戦法となっていた。組織的な抵抗が出来なくなっていたブーゲンビルでは多数の小部隊を以ってする
遊撃戦を行い皇軍がとにかく戦闘を続けている体裁を保ち、その面子を維持するためにも 実行された。ソロモンやニューギニアに取り残された日本軍にとっては
何か攻撃をして皇軍の名誉と光栄ある死処が必要であったのかもしれない。
米軍の戦車が最大の脅威であった。対戦車肉攻兵が組織訓練されるようになる。
この時期の日本軍が通常の戦闘で活躍したものに、ビルマでの撤退作戦、レイテでの第一師団の戦いが挙げられている。
硫黄島や沖縄では水際作戦は完全に放棄されて内陸で戦っているのに、本土決戦ではまた水際作戦に回帰しているのが興味深く、なぜかアメリカ軍もこれを見抜いていた。
戦闘戦史 最前線の戦術と指揮官の決断 樋口隆晴著 作品社
いくつかの局地戦にスポットを当てて、その時の指揮官がどう判断しどう行動したのか日本軍の用兵思想や各種教範類を使って解説している。
従来の戦記とは違って事実の列記や結果のみを見ての批判などではなくなぜそうなったのかの過程が丁寧に描写されています。なかなか良い本だと思いました。
序論にいくつか興味深いことが書かれていたので記しておく。
戦争の階層構造(戦略次元-作戦次元-戦術次元)
戦争という巨大で複雑な行為のなかで、直接干戈を交える、準軍事的な分野は、現在の用兵思想では三つの階層に区分される。
すなわち上から戦略(軍事戦略)次元-作戦次元-戦術次元である。本書では、戦術次元の戦いを扱うが、いうまでもなく戦術次元は作戦次元に、作戦次元は戦略次元に包摂される
とともに、それぞれ下位階層は、上位階層を下支えする。つまり「戦争の階層構造」という抽象的な概念を、実際の行動に移した場合、どのように戦術次元での勝利を収めても、
作戦次元での適切な行動がなければ、それを戦略上の勝利に結びつけることはできない。また、作戦次元における優れた着想も、戦術次元における実行の可能性がなければ
その着想自体が、画餅に終わる。
戦いの原則
目的の原則:目的の確立と追求
攻撃の原則:攻撃は、決定的成果を収める唯一の手段であり、敵に我が意志を強要できる。
簡明の原則:計画及び命令は、理解を容易にするため単純化し、明確に表現しなければならない。
統一の原則:全隊の統一は見出し游明朝体、努力を統合して共通目的に指向するためきわめて重要である。
集中の原則:決勝点には利用しうる最大限の戦闘力を集中すべきである。
経済(戦力節約)の原則:決勝点以外に使用する戦闘力は必要の最小限にとどめ、わが保有する全戦闘力を有効に活用すべきである。
機動の原則:機動とは、敵を不利におとしいれるようにわが部隊を移動させることである。
奇襲の原則:奇襲とは敵の予期しない時期、地点、または方法で敵を打撃することであり、彼我の相対的戦闘力の均衡を決定的に
我に有利にする。
警戒の原則:警戒は、部隊の安全を確保して上記の諸原則の実行を可能にする。
色々得るものがあったが長くなるので特に印象に残ったものだけ取り上げる。
最終防護射撃
大量の火器を投入して敵を狙うのではなく弾幕を張って敵を阻止する攻撃。
アメリカ軍がガダルカナルの戦いから多用し、日本軍の攻撃がことごとく失敗した。
こうなってしまえば正攻法では敵に勝る火力が必要だし、日本軍得意の夜戦で何とかしようにも狙って撃つわけではないのでどうにもならなくなった。
日本軍の常識から逸脱しておりガダルカナルで戦った勝股大尉は「異星界の出来事かと思われるばかりであった」と記す。
第十一章、ノモンハンの戦い金井塚大隊の帰還
ソ連軍の8月の大攻勢が始まる絶望的な状況の中でろ号陣地を守り、無断撤退の汚名を着ることなく負傷兵を一人も残さず無事に撤退を成功させた話。
運の要素もあるが、絶望的な戦いの中、兵の士気を落とさない為の行動、的確な陣地構築(反射面陣地)、指示(掩体壕の盛土をなくして目立たなくする、
壕を深くしうずくまれる横穴も作り火炎放射器から身を守った)により、他の陣地が陥落する中、苦しくても陣前突撃を許さず粘り強く戦う。
ソ連軍に完全に包囲され全滅か後退かの判断に迫られるが幸い「連隊本部に合流せよ」の命令が出ており敵中突破を試みる。
ソ連軍の警戒の拙劣さに助けられ無事脱出し連隊本部に向かうが全滅していて合流できず。連隊本部からの電文で「ノモンハンに向けて移動中」を思い出して
ノモンハンに向かうことにする。負傷兵を抱えながら敵中をさまよい無事にノモンハンの味方の兵站末地に到着する。
金井塚勇吉少佐の統率力は素晴らしく見事な指揮官であった。
日米開戦 陸軍の勝算
「秋丸機関」の最終報告書 林千勝著 祥伝社新書 記2021/09/18
秋丸機関の報告書が出てきた時もメディアなどでは、おなじみの日本は米国の巨大な国力を的確に分析していたのに軍部の暴走で
無謀な戦争に突入していったというおきまりのパターンとなっていた。
しかし、林千勝先生は違っていて、鋭い洞察力でこの報告書を分析している。この報告書の中に日本勝利の可能性を見出した。
自分も、この本が出版(2015年8月)されたとき割と早く購入(2016年4月)していたのだが、どうせ大したことはないだろうと思って
今まで読んでいなかった。もっと早く読んでいたらと悔やまれる。予想以上に素晴らしく、とても価値のある本だった。
長年、あの戦争を勝つにはどうしたらよかったのか探求してきた身としては、ついに答えが見つかったと感じるほどの本でした。
今まで、大東亜戦争こうすれば勝てた的な本を色々と読んできましたが、局地的に勝利できたとしてもアメリカの物量の前に
どうしても押し切られて負けてしまう未来しか見えなかった。
中でも少し光明が見えた作戦としては、アメリカとは戦わずオランダもしくはイギリスとオランダのみに宣戦布告していたら
というものと、佐藤晃氏の一連の著書にある西亜作戦を行っていたらというものでした(元々腹案では西に重点を置く戦略だった)。
インド洋がとてつもなく重要な地域であったという認識は持ったが、これで本当に勝てるという確信を持てずにいた。
でも、この本を読んで西亜作戦を行うというのはいいとして、アメリカとは全面戦争(総力戦)をせず限定戦争(思想戦)を行う
というのをみてこれが回答だったのかという思いがした。
戦争をしたがっていたのはアメリカではルーズベルト一派だけで国内世論の大半は戦争に反対していたし、ルーズベルトも公約で
戦争はしないと言って選挙に当選してきた。なるべくアメリカを刺激するような作戦は控えこの戦争の無意味さを訴えれば
西亜作戦の成果と合わせて早期講和に持ち込めた可能性はかなりあったのではないか。
秋丸機関の報告をもとに作られた腹案では、一度占領したフィリピンの返還という思い切った譲歩案まで視野に入れていた。
いままではどうやったらアメリカとまともに戦って勝てるのかを考えていて、どうやっても無理だという結論しか出なかったが、
なるほどまともに戦わないという選択肢もあったんだと今更ながら気づかされた。
実際に日本の戦争戦略である「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」では西に攻めて行ってドイツと連携してまずイギリスを
脱落させるとあって、大本営海軍部も了解していたはず。
なのになぜか海軍はアメリカを挑発させるように真珠湾奇襲攻撃をやり東へ東へと戦線を拡大していく。まさに海軍の暴走。
これで完全に世論が割れていたアメリカを怒らせてしまい戦争一色の世論となってしまい早期講和の道は完全に閉ざされた。
山本五十六のアメリカの国力は偉大だから敵の戦力が高まる前に積極攻勢で叩き続けて早期講和に持ち込むという意見も
一理あるとしても、国家の大方針がまずイギリスを脱落させるため西に攻勢に出て、東では海軍の伝統的基本戦略であるフィリ
ピン奪還のために出撃してくるであろう米主力艦隊を迎え撃つ作戦となっていたはずなのに不可解だ。
最良のケースとして想定されるのは、極力アメリカを刺激せず開戦し史実通り南方資源地帯を一挙に占領。
西に圧力をかけつつインド洋で通商破壊戦を行う。アメリカに対してはなぜ日本が戦争を決意するに至ったのか、今までの対日
政策やハルノートを公表してルーズベルトが挑発的な態度に出たこと、この戦争の無意味さを訴える。
この間に、出撃してくるであろうアメリカ主力艦隊をマリアナ諸島辺りで迎撃、大勝利できれば文句ないが引き分け程度に
持ち込む。アメリカ世論が戦争の長期化を懸念し、補給ルートを絶たれた蒋政権やイギリスが根を上げればアメリカとの
早期講和を実現できたかもしれない。フィリピン返還や中国からの撤兵、南方占領地について思い切った譲歩も必要ではあるが
腹案ではこの辺も考慮されている。
とにかく一旦講和になれば、状況次第ではそのまま平和につながるかもしれない。
軍事技術の発達や核の時代に入れば、又共産主義の脅威で利害が一致すれば大国同士の戦いが起こる可能性は少なくなる。
ともかく、この秋丸機関の報告書と林千勝先生の著書や発言(動画)を元にして、あの戦争はどうやれば勝てたのか色々と課題も
あるので、細かい点を精査して研究してみようと思う。
自分の永遠のテーマでもある大東亜戦争に勝つ方法を何とか完成させてみたい。
かなり引用が長くなってしまうが、今後研究する上で重要なので列記しておく。
P20 陸軍省戦争経済研究班設立
昭和14年秋、正式には昭和15年1月に「陸軍省戦争経済研究班」が設立される。
別名「陸軍省主計課別班」とも「秋丸機関」とも呼ばれる。
設立を企画した中心人物は、陸軍省軍務局軍事課長であり大佐であった岩畔豪雄。中野学校創立者としても知られる。
この組織の責任者が秋丸次朗中佐。
P27 3つの組織が国力判断を実施
日満財政経済研究会
当時の日本は繊維製品を輸出して獲得した外貨を使って必要物資を、主として英米圏から輸入する構造になっていた。
しかし、支那事変によって「輸出激減、輸入力減退。生拡停滞、生産減少、再生産困難」との結論に到る。
企画院
「輸出激減、輸入力減退で物動見直し。必要物資7割の輸入先の英米との戦争は無理。日本の経済力は長期戦に耐え得ず」
「輸入途絶の計画は成り立たず」との結論。
陸軍省整備局
「日米通商条約廃棄通告、輸入力に制約で重要物資供給に支障へ。民需大幅削減。満州は日本からの機械、食料、資金等に期待」
との結論。日本は満州国に期待するどころか逆に重荷となっている。
すでに支那事変が始まって数年で厳しい状況となっている。昭和15年以降の国力判断はさらに厳しいものとなる。
当時の日本の鋼材生産能力は年間500万トン、米国は8000万トンと桁違いであった。
P41 マルクス経済学者有沢広巳
陸軍省戦争経済研究班で最も重要な英米班の主査に、治安維持法違反で検挙され保釈中の身であった、マルクス経済学者で
東京大学経済学部助教授の有沢広巳を招く。実質上の研究リーダーであった。
イデオロギーに囚われず有能な人材を登用していった。
陸軍省戦争経済研究班は総勢百数十名から二百名程度の組織であった。約250種の報告書を作成した。
P48「独逸経済抗戦力調査」の研究成果
統制経済組織の方が自由経済組織よりもはるかに強力な経済抗戦力の発現を可能ならしめる。
持たざる国でも統制経済によって一時的に国力を高め短期戦なら有利に戦える。
短期戦で終わらずに長期戦となれば経済抗戦力は低下せざるを得ない。
持たざる国が最後の勝利を得る、長期戦を戦うには同盟国、友邦、更には占領地を打って一丸とする広域経済圏の確立を目指す。
この広域経済圏の生産力が対長期戦の経済抗戦力として利用され得るに至る。
日本にとっての広域経済圏とは「大東亜共栄圏」。
P72 戦争規模の想定
英国及び米国の必要年間戦費を前大戦(第一次世界大戦)の倍と仮定している。
現実に英国が費やした戦費はほぼ想定通り、米国の場合は想定を大きく上回り前大戦の10倍に達した。
動員兵力は、英国は前大戦を元に400万人、米国は政府当局の発表を元に250万人と想定。
私見
実際の兵力はネットで調べてみると、英国468万3000人、米国1611万2566人となっていた。
ついでに主な国の兵力を見てみると、日本609万5000人、ドイツ920万人、イタリア400万人、ソ連1250万人、中国500万人。
資料によってばらつきがかなりあるけど、米国が1500万人程度動員していたのは確かなようだ。
英米合作経済抗戦力想定
英国 戦費(年間)40億ポンド(800億円) 動員兵力400万人 社会生産物(年間)27億ポンド(540億円)
米国 戦費(年間)200億ドル(800億円)
動員兵力250万人 社会生産物(年間)507億ドル(2028億円)
当時の日本のGDPは200億円(GDPに近い概念が社会生産物)
P78 英国の経済抗戦力を測定
細かい計算をしていくと、最終的に英国の物資供給量の不足額は約11億5000万ポンド(230億円)となる。
この不足額分の物資を米国より輸入する必要がある。
英国が保有する遠洋適格船は1468万総トン。貨物積載トン数に換算すると1761万6000トンとなる。
英国保有の遠洋適格船を挙げて米国からの物資輸送に充てたとすれば、必要量を輸送したうえで、なお3700万トン
以上の輸送余力があった。
P91 米国の経済抗戦力を測定
細かい計算をしていくと、最終的に軍需生産においてなお約510万人の労働力上の余力を持ち、純生産価値で
年産138億ドルに上る軍需資材の供給余力を有する。
英国向けの約11億5000万ポンド(57億5000万ドル)を除いて、英国以外へは約80億ドルの軍需資材の供給余力を有す。
この最大供給力発揮には、戦時転換の問題があるので、開戦後1年から1年半の期間を要する。
ここが日本にとっての大きな鍵となる。
当時の米国では、失業者が856万8000人、他に無業者やサービス部門の人員などが豊富に控えていた。
遊休設備が全設備能力の20〜25%に上っていた。
日本や英国はほとんど余力は無かったが、米国では世界恐慌からの立ち直りが遅れたのかかなりの余力を有していた。
米国が保有する遠洋適格船は574万9000総トン。貨物積載トン数に換算すると689万7000トンとなる。
米国の海上輸送余力は、平時輸送を差し引いて3938万トンとなる。
しかし、実際は老齢船が多く、現実的には米国には積載余力はあまりないと考えられる。
米国の建造計画は1941年125万総トン、1942年350万総トン、1943年500万総トンとなっていた。
英国は1941年50万総トンの建造実績、1943年100万総トン程度であると考えられた。
P104 英米合作の弱点を掴む
英国は、ドイツの攻撃により、すでに1941年(昭和16年)5月末現在において、約1千万総トンの遠洋適格船を喪失していた。
問題の核心は、英米の造船能力と、枢軸国側による撃沈速度の競争となったのです。
英米合計の造船能力は、1943年(昭和18年)においては月50万総トンと考えられますので、月平均50万総トン以上の撃沈は、
米国の対英援助を無効ならしめていきます。そして、月50万総トン以上の撃沈は、きわめて現実的な数字でした。
P107 対英米戦争戦略の最終結論
「陸軍省戦争経済研究班」では、「2年程度と想定される短い持久期間で最大軍事供給力、すなわち最大抗戦力を発揮すべき」対象を、
経済抗戦力に構造的な弱点を有する英国と結論づけた。
【資料】「英米合作經濟抗戰力調査 (其1)」
判決
一、英本国の経済国力は動員兵力400万=戦費40億ポンドの規模の戦争を単独にて遂行すること不可能なり。
その基本的弱点は労力の絶対的不足に基ずく物的供給力の不足にして軍需調達に対して約57億5000万ドル
(資本償却等を断念しても32億5000万ドル)の絶対的供給不足となりて現る。
二、米国の経済国力は動員兵力250万=戦費200億ドルの規模の戦争遂行には、準軍事生産施設の転換及び遊休施設利用のため
動員可能労力の60%の動員にて十分賄い得べく、更に開戦一年乃至一年半後に於ける潜在力発揮の時期に於いては
軍需資材138億ドルの供給余力を有するに至るべし。
三、英米合作するも英米各々想定規模の戦争を同時に遂行する場合には開戦初期に於いて米国側に援英余力無きも
現在の如く参戦せざる場合は勿論参戦するも一年乃至一年半後には英国の供給不足を補充して尚第三国に対し
軍需資材80億ドルの供給余力を有す。
四、英本国は想定規模の戦争遂行には軍需補給基地としての米国との経済合作を絶対的条件とするを以って、これが成否を決すべき
57億5000万ドルに達する完成軍需品の海上輸送力がその致命的戦略点(弱点)を形成する。
五、米国の保有船腹は自国戦時必要物資の輸入には不足せざるも援英輸送余力を有せず。
従って援英物資の輸送は英国自らの船舶に依るを要するも現状に於いて既に手一杯の状態にして今後独伊の撃沈に依る
船舶の喪失が続き英米の造船能力(最大限41年度250万トン、42年度400万トン)に対し喪失トン数が超えるときは
英の海上輸送力は最低必要量1100万トンを割ることとなり英国抗戦力は急激に低下すべきこと必定なり。
六、英国の戦略は右経済抗戦力の見地より軍事的・経済的強国との合作に依り自国抗戦力の補強を図ると共に対敵関係に於いては
自国の人的・物的損耗を防ぐため武力戦を極力回避し、経済戦を基調とする長期持久戦によりて戦争目的を達成するの作戦に
出づること至当なり。
七、対英戦略は英本土攻略により一挙に本拠を覆滅するを正攻法とするも、英国抗戦力の弱点たる人的・物的資源の消耗を急速化するの
方略を取り、空襲に依る生産力の破壊及び潜水艦戦に依る海上遮断を強化徹底する一方、英国抗戦力の外郭をなす属領・植民地に
対する戦線を拡大して全面的消耗戦に導き且つ英本国抗戦力の給源を切断して英国戦争経済の崩壊を策することも亦極めて有効なり。
八、米国は自ら欧州戦に参加することを極力回避しその強大なる経済力を背景として自国の軍備強化を急ぐと共に、反枢軸国家群への
経済的援助により交戦諸国を疲弊に陥れ其の世界政策を達成する戦略に出ること有利なり。之に対する戦略は成るべく速やかに
対独戦へ追い込み、その経済力を消耗に導き軍備強化の余裕を与えざると共に、自由主義体制の脆弱性に乗じ内部的撹乱を企図して
生産力の低下及び反戦気運の醸成を図り併せて英・ソ連・南米諸国との本質的対立を利して之が離間に務むるを至当とす。
P124 帝国陸軍の科学性と合理性が、大東亜戦争の開戦を決めた
昭和16年7月、杉山参謀総長ら陸軍首脳部への戦争経済研究班の最終報告は、現存する諸報告書その他諸文献を総合すると、
「英米合作の本格的な戦争準備には1年余かかり、一方、日本は開戦後2ヵ年は貯備戦力と総動員にて国力を高め抗戦可能。
此の間、輸入依存率が高く経済的に脆弱な英国を、インド洋(及び大西洋〔独逸が担当〕)における制海権の獲得、海上輸送遮断や
アジア植民地攻撃によりまず屈服させ、それにより米国の継戦意思を失わせしめて戦争終結を図る。同時に、生産力確保のため、
現在、英、蘭等の植民地になっている南方圏(東南アジア)を自給自足圏として取り込み維持すべし」というものであった。
これに対して、杉山参謀総長は「調査・推論方法は概ね完璧」と総評しています。
インド洋こそは大英帝国の内海にして、米英にとっての軍事・経済の大動脈。
すなわち、インドや豪州などから英本国への綿花・羊毛・亜鉛・鉛等鉱物資源などの原材料や小麦・茶・牛肉。乳製品・林檎
などの食料の輸送、エジプトやインドへの兵員・武器の輸送、ソ連(イラン経由)や蒋政権(インド経由)への援助物資の輸送の
大ルートであった。
P127 ドイツの対ソ戦を冷静に判断
英米と総力戦を戦う独逸にとって、生産力確保のためにはソ連の占領が必須であった。
独逸の経済抗戦力は本年(1941年)一杯を最高点とし、42年より次第に低下せざるを得ず。
独逸の対ソ戦が、万一、長期化し、徒らに独逸の経済抗戦力消耗を来すならば、対英米長期戦遂行が
全く不可能となり、世界新秩序建設の希望は失われる。
独逸が非常に長期に亘る対英米戦を遂行する場合は、独逸がスエズ運河を確保し、又、我国がシンガポールを占領し、
相互の協力により印度洋連絡を再開するを要す。
P131 「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の決定
「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」は、昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議にて、大日本帝国の戦争戦略、
国家戦略として正式決定された。
【資料】「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」
方針
一、速に極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し、
独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。
二、極力戦争相手の拡大を防し第三国の利導に勉む。
要領
一、帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及び西南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、
重要資源地域竝主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う。
凡有手段を尽くして適時米海軍主力を誘致し之を撃滅するに勉む。
二、日独伊三国協力して先ず英の屈伏を図る。
(一)帝国は左の諸方策を執る
イ、濠洲印度に対し政略及び通商破壊等の手段に依り、英本国との連鎖を遮断し其の離反を策す。
ロ、ビルマの独立を促進し其の成果を利導して印度の独立を刺戟す。
(二)独伊をして左の諸方策を執らしむるに勉む。
イ、近東、北阿、スエズ作戦を実施すると共に印度に対し施策を行う。
ロ、対英封鎖を強化す。
ハ、情勢之を許すに至らば英本土上陸作戦を実施す。
(三)三国は協力して左の諸方策を執る。
イ、印度洋を通ずる三国間の連絡提携に勉む。
ロ、海上作戦を強化す。
ハ、占領地資源の対英流出を禁絶す。
三、日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む。
(一)帝国は左の諸方策を執る。
イ、比島の取扱は差当り現政権を存続せしむることとし、戦争終末促進に資する如く考慮す。
ロ、対米通商破壊戦を徹底す。
ハ、支那及び南洋資源の対米流出を禁絶す。
ニ、対米宣伝謀略を強化す。
其の重点を米海軍主力の極東への誘致竝米極東政策の反省と日米戦無意義指摘に置き米国与論の厭戦誘発に導く。
ホ、米濠関係の離隔を図る。
(二)独伊をして左の諸方策を執らしむるに勉む。
イ、大西洋及び印度洋方面における対米海上攻勢を強化す。
ロ、中南米に対する軍事、経済、政治的攻勢を強化す。
四、支那に対しては、対米英蘭戦争特に其の作戦の成果を活用して援蒋の禁絶、抗戦力の減殺を図り在支租界の把握、
南洋華僑の利導、作戦の強化等政戦略の手段を積極化し以て重慶政権の屈伏を促進す
五、帝国は南方に対する作戦間極力対ソ戦争の惹起を防止するに勉む。
独ソ両国の意向に依りては両国を講和せしめ、ソ連を枢軸側に引き入れ、他方日ソ関係を調整しつつ場合によりては、
ソ連の印度、イラン方面進出を助長することを考慮す。
六、佛印に対しては現施策を続行し
泰に対しては対英失地恢復を以て帝国の施策に協調する如く誘導す。
七、常時戦局の推移、国際情勢、敵国民心の動向等に対し厳密なる監視考察を加えつつ、戦争終結の為左記の如き機会を捕捉するに勉む。
イ、南方に対する作戦の主要段落。
ロ、支那に対する作戦の主要段落特に蒋政権の屈伏。
ハ、欧州戦局の情勢変化の好機、特に英本土の没落、独ソ戦の終末、対印度施策の成功。
之が為速やかに南米諸国、瑞典、葡国、法王庁等に対する外交竝宣伝の施策を強化す。
日独伊三国は単独不講和を取極むると共に、英の屈伏に際し之と直ちに講和することなく、英をして米を誘導せしむる如く施策するに勉む。
対米和平促進の方策として南洋方面における錫、ゴムの供給及び比島の取扱に関し考慮す。
P165 第三章 山本五十六連合艦隊司令長官が、大東亜戦争を壊した
「腹案」の機軸を成す西進戦略を壊したのは、山本五十六連合艦隊司令長官だった。
真珠湾攻撃は、米国民の戦意を猛烈に昂揚させました。対枢軸開戦と同時に始まる米国の戦争準備を劇的に
スピードアップさせ、米国が猛烈な勢いで供給力(経済抗戦力)を最大化することを可能とした。
「陸軍省戦争経済研究班」では、1943年(昭和18年)の造船能力を、米国が500万総トン、英国が100万総トン、併せて
600万総トンと予測していましたが、米国の戦争準備の勢いに火が付いたことで、当時のドイツ海軍の調査情報に
よりますと、米国の造船能力は倍の1000万総トン、英国でも150万総トン併せて1150万総トンと一気に倍増し、
最大化に向かってしまいました。
「腹案」の第二段作戦は、イギリス屈服に重点を置き、ビルマ、インド(洋)、さらには西アジアを見据えての
西進が基本であった。
一応海軍はインド洋作戦を実施したが、ドーリットル空襲により流れが変わってしまった。
その後、ミッドウエー作戦や米豪遮断作戦など太平洋方面の作戦に執着、ガダルカナルの戦いが始まって
日本から遠く離れた不利な地域で消耗戦を戦うことになってしまった。
ここに、インド洋作戦を始めとする西進戦略はすべて崩壊、日本の戦争戦略は完全に破綻した。
山本五十六連合艦隊司令長官らによる戦争戦略からの逸脱が、我が国をそもそも意図せざる太平洋戦争という
地獄へと転落させ、大東亜戦争を遂行不能に陥れた。
P191 第四章 歴史の真実を取り戻せ!
なぜか戦後、「陸軍省戦争経済研究班」に関わって「英米合作經濟抗戰力調査
(其1)」を完成させた
有沢広巳も秋丸次朗もこれだけの成果を挙げたのに日本の勝利の可能性を完全に無視して悲観的な調査結果を強調して
軍部が無謀な戦争に突き進んだと断じている。
当時の風潮として自分の調査結果のせいで戦争が決まったと思われたくなかったのかもしれない。
個人的には著者の言うように無謀な戦争ではなく一応の勝算を以って戦いに臨んだことを証明してくれた、
よくやってくれたという思いである。
ただ国力を比較するだけならアメリカが圧倒的に有利なのはすぐに分ることだが、そこから相手の弱点を見出して
勝利の可能性を追求し、一応の結論を導き出した秋丸機関の功績は偉大だと思う。
国力だけを比較したら日清戦争は5倍、日露戦争は10倍の相手と戦ったことになるので無謀な戦争だったことになる。
しかし、あの戦争に勝つ方法を長年模索してきた結果、たどり着いた先が開戦前の日本の国家戦略である「腹案」であり、
その元となった秋丸機関の報告書だったとは驚きである。
大東亜戦争
日本は「勝利の方程式」を持っていた! ―実際的シミュレーションで証明する日本の必勝戦略
茂木弘道著 ハート出版 記2021/10/01
この本では「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の通りに日本が戦争を行っていたらどうなっていたかを検証しています。
丁度、「日米開戦 陸軍の勝算」を読んで自分でもこの線で日本が本当に勝てたのか研究をしようと思っていたのでタイムリーな本でした。
P46 この腹案の全文
「戦史叢書076巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯5」の344〜346頁に載っている。
P52 ソ連の中国支援
昭和12年(1937年)8月(上海戦のさなか)に中国はソ連と不可侵条約を結んだ。
その秘密条項で、ソ連は年内に、航空機360機、戦車200両、牽引車1500両、ライフル銃15万丁、砲弾12万発
銃弾6千万発を提供し、さらに軍事顧問団を送ることが取り決められた。
ドイツ軍事顧問団とドイツ式装備の部隊で自信をつけていた蒋介石にソ連からこれだけの援助が得られれば
日本打倒に乗り出したのもわかる気がする。
P68 大問題の対ソ政策
著者のいうようにソ連を枢軸側に引き入れようというのが腹案の中で特に悪い点だったと思う。
なぜあんなに共産主義を恐れていた日本がソ連を仲間に引き入れようとする幻想を抱いたのか、又
終戦間際にはソ連に講和の仲裁を頼もうとしたのか理解に苦しむ。
P87 開戦時の艦船・航空機の戦力で日本はむしろ優勢だった
アメリカの戦力は太平洋側と大西洋側に分けて配備しなければならない。
戦力で比較する場合、「日本vsアメリカ総数」ではなく「日本vsアメリカ太平洋側」となる。
そうすると、日本の方がやや優勢。空母に至っては日本10隻に対してアメリカは3隻(大西洋側の空母を含めても7隻)
と日本が大優勢となる。
しかし、開戦から2年ぐらいたつとアメリカの大空母艦隊がやってくる。
したがって、この戦力を有効に活用して開戦後2年の間にどのような体制を築き、講和に持ち込めるかを考える必要がある。
P91 戦力は根拠地から戦場への距離の2乗に反比例する
これはよく知られた「戦いの原則」です。日本海軍の伝統的な作戦は、敵艦隊をマリアナ近海に引き付けて迎え撃つという
ものであった。長距離からやってくる敵艦隊の戦力を弱体化させる戦術を取りつつ、マリアナ諸島を要塞化して迎え撃てば
かなり有利に戦うことができた。悪い例がガダルカナルの戦いで、日本は拠点のラバウルから1000キロも離れた場所で戦い
補給が続かず、戦力も大きくすり減らして撤退に追い込まれた。
P95 アメリカが日本の予測より早く反撃してきた理由
ジェームズ・ウッド教授の本によると、アメリカは昭和18年の反攻を予定を早めて戦ったというよりも、
日本がガダルカナルという米豪軍の勢力圏に入ってきたので、有利な地の利を使って反撃したに過ぎないということのようだ。
アメリカが当時派遣できる最大戦力は海兵隊1個師団であった。
P99 石原莞爾中将のガダルカナル評
戦争の勝敗は最初から分かっております。我が方の作戦はすべて攻勢の終末点を越えています。
戦力は根拠地と戦場との距離の自乗に反比例するのが原則です。
持久戦争においては、攻勢終末点を何処にするかが、最初から確立されていなければなりません。
早速ガダルカナル島から撤退すべきです。陸軍も又同様であります。ソロモン、ビスマーク、ニューギニア
の諸島は早急に放棄することです。そして我が補給戦確保上、攻勢終末点を西はビルマ国境から、シンガポール、
スマトラ等の資源地帯を中心とし、この防衛線を堅固に構築し、中部は比島の線に退却せしめ、他方本土周辺の
サイパン、テニアン、グアムの南洋諸島を難攻不落の要塞化することであります。
当時から攻勢終末点という考え方があり、腹案もこの点を考慮した内容となっていた。
P119 第11号作戦(西亜作戦/セイロン作戦)
ロンメル率いる独伊軍が1942年6月21日、リビア東部にあるトブルク要塞を攻略する。
この機をとらえて6月29日、杉山参謀総長は第11号作戦の準備を指示。
7月11日、永野軍令部総長は「連合艦隊主力を投入するインド洋作戦の強化」を上奏。
陸軍2個師団、海軍連合艦隊の大部による、セイロン島を攻略してインド洋方面における敵勢力を制圧する
第11号作戦が発動されようとしていた。
しかし、この作戦はガダルカナルの泥沼に足を突っ込んだために実行されなかった。
ほぼ成功していたと思われる作戦であった。アメリカのマーシャル参謀総長もイギリスのチャーチル首相も
日本軍のインド洋攻撃を極度に恐れていた。
P125 第5号作戦(重慶地上侵攻作戦)
重慶侵攻作戦は山西南部から軍を発する10個師団(約20万強)の南下軍と、漢口上流の宜昌から軍を発する6個師団(約12万強)
の西進軍からなる大規模な作戦。1942年9月に参謀本部は作戦準備を下令、綿密な計画書が作成されつつあった。
しかし、11月16日、支那派遣軍に中止指令が出される。ガダルカナルの泥沼がその理由。
第11号作戦が予定通り行われ、重慶軍に軍需物資が供給されなくなっていれば蒋介石は白旗をあげていた可能性は高い。
P128 独伊と提携して先ず英の屈服を図る(第2段作戦)
第11号作戦が予定通り実行されたとすると、インド洋を経由しての輸送はほぼストップしてイギリスは大打撃を受ける。
トブルクを陥としたロンメルはスエズへ向かい進軍してきますが、エル・アラメインでイギリス軍はこれにストップをかける。
ここで攻防戦が続きますが、1942年9月、アメリカが最新のM4戦車300両と100門の自走砲を急遽インド洋経由で送ったのが
決め手となって、11月4日、ついにロンメルは全軍に退却を命じます。イギリスの勝利が決した。
しかし、西亜作戦が実行されていたなら勝敗が逆になっていた可能性が高い。
P130 アメリカのソ連支援の大動脈としてのインド洋
その供給ルートは3つありました。北極海と津軽海峡とインド洋です。津軽海峡については、日本はソ連旗を掲げた
輸送船については、中立条約の建前上、黙認していました。
供給の中心ルートはインド洋で、全体の7割以上を占めていた。
ソ連がどのくらいの軍事支援をアメリカから受けていたのかというと、重量では1652万トン、金額にすると106億7000万ドル
にのぼったといわれる。
主な品目でいうと、航空機1万4700機、戦車7000両、その他、戦闘用車両6300両、砲車2300台、対空砲8200台、
トラック37万5000台、ジープ5万2000台などでした。食料も、447万8000トン援助されていました。
これらの支援の半分がもしソ連に届かなかったら、ソ連がドイツに勝利することは極めて難しくなるでしょう。
ソ連が弱体化、若しくは負ければイギリスは非常に厳しい状況となる。
P133 米の継戦意志を喪失せしむるに勉む
これまで見てきたように、第11号作戦を実行することが、「積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進」及び
「独伊と提携して先ず英の屈服を図る」の課題を達成するカギとなっていることがわかる。
中国に対しては、蒋介石の追放は考えず、汪兆銘政府との連合政権樹立を目指すことになったと思われます。
そうなると、新日の汪蒋連合政権が中国に樹立されることになります。この政権がアメリカに対して日本に
有利な声明を出せばアメリカが日本と戦う意義が一つ失われることになる。
第11号作戦を実行すれば、陸軍がセイロン島を占領することになる。ここにインド国民軍の拠点を築きインド本土上陸を
狙うことが出来る。まだこちらが航空優勢を保っていた、1943年の前半、陸からのインパール作戦とセイロン島からの
上陸作戦が追加兵力を加えて実施されていたとすると、日本軍とインド国民軍部隊は、かなり有利な戦いを展開できた可能性が
高くなる。うまくいけば、英印軍のインド兵が大量に投降してインド国民軍に加わる事態になり、イギリス軍がたちまち崩壊する
可能性も高まる。インドが堂々と独立してインド政府樹立を宣言すればアメリカはこれにどう対処するか、相当困り継戦意志を喪う
のではないか?
P141 もし自分が参謀総長だったなら絶対負けなかったろう
石原莞爾は東京裁判の証人として、アメリカの検事の一人に「今次大戦でもしも自分が参謀総長だったなら、日本は
絶対負けなかっただろう」と言った。石原莞爾の作戦は次のようだったと伝えられる。
「本土周辺及びサイパン・テニヤン・グアムの南洋諸島を一切難攻不落の要塞化し、何年でも頑張りうる態勢を取ると
共に、外交では支那事変解決に努力を傾注する」
「特にサイパン防衛には万全を期し、ここは断固確保する。これで米軍の侵入は充分防げた。米軍はサイパンを確保
しなければ、日本本土への爆撃は困難であった。従って、サイパンさえ防衛出来れば、レイテ(フィリピン)を守り、
持久戦に持ち込めた(戦争を膠着化)。蒋介石(中国・国民党総統)が態度(完全に連合国寄り)を明確にしたのは
サイパン陥落後だ。サイパンさえ死守出来たら、日本は東亜(東アジア)の内乱を政治的に解決し、支那に心から
謝罪して支那事変を解決し、次に民族の結合を利用して、東亜一丸となる事が出来たであろう」(大要)
P144 第4章 なぜ勝利の戦略が実現できなかったか
要約すると海軍の暴走であるが、真珠湾攻撃の成功が全てを狂わせた
「勝利病」となり積極的な攻勢作戦がとられるようになり陸軍も引きずられた
山本五十六連合艦隊司令長官の権威が高まり彼の作戦に誰も逆らえなくなった
統帥権の陸海軍分立で統一した指揮を取ることが出来なかった
太平洋の島の防衛は海軍の縄張りで、陸軍は海軍から頼まれて初めて派兵するといった状況。
1943年9月25日、「絶対国防圏強化構想」が大本営政府連絡会議で決まったが、海軍はマリアナ諸島の要塞化を
行っておらず、陸軍主力部隊が上陸したのが1944年6月で1ヶ月もたたずに米軍が攻めてきてあっけなく陥落してしまう。
P154 昭和20年2月16日、首相を退任していた東條大将は、参謀の種村佐孝大佐にこう言った。
「海軍の実力に関する判断を誤れり、しかも海軍に引きずられた。攻勢終末点を誤れり、印度洋に方向を採るべきであった」
東條首相は腹案に忠実であろうとしたが、独裁者ではないので思い通りにならなかった。
P196 サイパンの要塞化
時間は約1年あったので難攻不落の要塞化は十分可能であった。
ビアク島、ペリリュー島、硫黄島では要塞化によって善戦している。
サイパン島は硫黄島の5倍近い面積で、473メートルの山もあり、これを要塞化したら、陥とすには少なくとも半年はかかると見られる。
この本を読んで得たことを私的見解を交えて考察すると、
開戦時には日本は充分な戦力を有しており、約2年は優位に戦える力があったということ。
アメリカが巨大な力を発揮するまでの2年間という限られた期間で講和に持ち込めるかが勝負ということ。
いかにしてアメリカの戦意を喪失させるかということが最も重要であること。
そのための方策が、第11号作戦(西亜作戦)である。
想定される理想の状況としては、
南方資源地帯の攻略は史実通りうまくいったと思われる。
太平洋方面は守勢、積極的な作戦は行わない。
第11号作戦(西亜作戦)を実施、インド洋制圧が成功したとすると、
・インド独立の機運が高まり、インドの政情が不安定となる。→ インド攻略作戦が現実味を帯びる?
・ソ連への支援物資の補給約7割が絶たれる。
→ コーカサス作戦でドイツ軍勝利?
・アメリカのイギリス軍への支援がアフリカに届かない。 → アフリカ戦線でドイツ軍勝利?
・イギリスの属領〜イギリス本国の補給路が絶たれる。 → イギリス苦境となる?
・蒋政権への英米からの補給路は完全に絶たれる。 → 蒋政権との講和、支那事変解決?
その後、
第5号作戦(重慶地上進攻作戦)を行う。
なるべく寛大で蒋介石の面子を保つ形で講和に持ち込む。親日的な汪蒋連合政権を誕生させる。
中国を救うというアメリカの大義が失われる。支那大陸にあるおよそ100万の日本陸軍が転用できる。
インド進攻作戦を行う。
蒋政権を倒せば兵力にかなりの余裕が生まれる。この兵力を使ってインド進攻作戦を行う。
インドをはじめとしてアジアの国々を独立させる。中国を加えた大東亜共栄圏の確立。
侵略戦争をはじめた日本を打倒するというアメリカの大義が失われる。
あわよくば、中東まで攻め込み、ドイツとの連絡線を確保する。
適当なところでアメリカとの講和に持ち込む。
これはかなりできすぎた想定で、実際は問題が山積している。
英ソへの補給をある程度遮断できたとしてドイツ軍は本当に勝てるのか
果たしてアメリカとの限定戦争は成立しうるのか
だが、日本勝利の可能性がだいぶ具現化してきた。
日本が史実的にセイロン島攻略を含むインド洋作戦を行おうとした時期、
1942年7月11日に永野軍令部総長は「連合艦隊主力を投入するインド洋作戦の強化」を上奏とあるので作戦はそれ以降か。
タイミング的にはちょっと遅すぎる気がする。(実際はガダルカナルの戦いで中止となったが)
P150 昭和17年2月20日〜23日に連合艦隊司令部は大和艦上でインド洋(セイロン島)攻略の図上演習を行っており、
軍令部要員や陸軍参謀本部からも立ち会っていた。参謀本部の部員はドイツのアフリカ方面作戦の進展と合わせて
行うべき、またビルマ勘定もまだ完了していないとして反対。結局、軍令部は「セイロン島攻略作戦」を否決する。
しかし、連合艦隊は4月5日にセイロン島作戦を実行する。
陸軍の協力も得られない状況で軍令部も反対してたのになぜ強行されたんだろう?
だが、この時期に陸軍を投入してセイロン島上陸を含む西亜作戦を行う絶好の機会だったと思う。
蛇足 大東亜戦争勝利への探求1 如月参謀著 記2021/10/26
書評と関係ないが、日本が大東亜戦争で勝利するために参考となる事柄や研究など、思いついた事を書き留めておこうと思う。
改めて言うまでもないが、日本が戦争に勝つといっても、アメリカ本土に上陸するとかワシントンを占領するとかはほとんど
不可能なので想定していない。とにかく負けないこと。自存自衛を全うできる状況で講和を結ぶ、又は現状維持程度の引き分け
に持ち込めれば日本の勝ちとする。当時の日本は戦争をしなくても負けたのと同じになるような状況に追い込まれていたので
それを打開できればよかった。
日本とドイツが提携できる可能性が高かったドイツ軍の作戦
・ブラウ作戦(ドイツ軍のコーカサス地方進攻) 1942年6月28日〜1942年11月24日
・エル・アラメインの戦い(ドイツ軍のエジプト進攻) 1942年7月1日〜1942年11月3日
やっぱり日本が取り得る最良の策は西亜作戦か。
日本とドイツの関係
1922年4月〜1933年 ラパッロ条約
1928年〜1938年5月
ドイツ軍事顧問団、中国で活動
1933年1月
ヒトラー政権誕生
1936年11月 日独防共協定締結
1937年7月 支那事変
1937年11月
日独防共協定にイタリアが参加して日独伊防共協定となる
1939年
防共協定にハンガリー、満州国、スペインが参加 6カ国による協定となる
1939年5月〜8月 ノモンハン事件
1939年8月
独ソ不可侵条約
1939年9月1日 ドイツ軍ポーランド侵攻(第二次世界大戦)
1939年9月17日
ソ連軍ポーランド侵攻
1940年9月 日独伊三国同盟
1941年4月 日ソ中立条約
1941年6月
ドイツ軍ソ連侵攻
1941年12月 大東亜戦争
こうやって見ると日本とドイツは全然連携が取れていなかったことがよくわかる。
本来なら日本とドイツが共同してソ連を倒すべきであったのに、何故かそうはならなかった。
ドイツは当初、中国に肩入れしており中独合作を行って経済的にも軍事的にも強い結びつきがった。
又、ソ連ともラパッロ条約を結び良好な関係を築いていた。
しかし、ヒトラー政権が誕生すると防共意識が高まり、日本と防共協定を結ぶ。
1937年7月支那事変が始まると、長年のドイツ軍事顧問団の活躍によって日本は中国軍に苦戦を強いられるが
抗議によって1938年5月にようやくドイツ軍事顧問団を退去させることに成功する。
1939年5月にノモンハン事件が勃発する。まだ日本とソ連が戦っているにも関わらずドイツはソ連と8月に
独ソ不可侵条約を締結する。
1939年9月にはドイツとソ連は仲良くポーランドに侵攻して領土を分割する。
完全にドイツに裏切られた形なのに何故か、1940年9月に日独伊三国同盟が結ばれる。
当然のごとく日本と英米との関係はさらに悪化する。
松岡洋右は日独伊にソ連を加えて四国協商として日米交渉を有利に進めようとして、1941年4月に
日ソ中立条約を結ぶが、1941年6月にドイツ軍がソ連に侵攻してしまい無意味となってしまった。
そして、1941年12月大東亜戦争に至る。
ドイツと日本とではそもそも戦争目的が違いすぎる。
ドイツを裏切ることになるかもしれないが、英米との単独講和も考慮が必要。
英米がドイツの危険性とユダヤ人虐殺に対して徹底的に無条件降伏まで追い込む企図をしていたら日本もそれに巻き込まれる。
日本は八紘一宇の精神でユダヤ人虐殺には加担していないし、自衛のためやむなく立ち上がっただけなので好機をとらえて
さっさと収拾を図るべきだろう。
レンドリース法(wikiより)
調べてみたらかなり詳細に書かれてあったので気になる箇所を抜粋しておく。
1939年9月の第二次世界大戦勃発から18ヵ月後の1941年3月から開始された。
総額501億USドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、
113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中国へ提供された。
重要性(主にソ連)
援助については、戦争がもたらした経済のゆがみを考慮するとよく理解できる。
多くの交戦国は戦争に本質的ではない物資の生産をかなり削減し、兵器の生産に集中した。
これは必然的に軍および軍需・産業経済の一部にとって必要とされる関連した製品の不足を招いた。
例えば、ソ連は鉄道輸送に強く依存していたが、兵器生産に必死であったため、戦争の全期間を通じてたったの92両の機関車しか
生産できなかった。この点で、アメリカの支援した1,981両の機関車の意味が理解できる。
同様に、ソビエト空軍は18,700機の航空機を受け取り、これはソビエトの航空機生産の14
%、軍用機の19 %
を占めた。
赤軍の戦車のほとんどはソ連製であったが、アメリカからM3軽戦車、M3中戦車、M10駆逐戦車などが貸与され、特にM4中戦車はその性能と
信頼性の高さからエリート部隊である親衛戦車師団(機甲師団)に優先配備された。
イギリス(一部カナダ製)からはバレンタイン歩兵戦車、マチルダ歩兵戦車、チャーチル歩兵戦車などが貸与され、
特にイランルートで送られて来たものは、自国製戦車の補給が滞った1942年の東部戦線南部で貴重な戦力となった。
兵站も何十万両ものアメリカ製トラックによって支援されており、1945年の時点で赤軍に配備されたトラックの、ほぼ3分の2はアメリカ製
であった。ジープやダッジ
3/4 トントラック(WC シリーズ)、スチュードベーカー 2.5
トントラックは、独ソ戦において両陣営が使用した
同クラスの輸送車輌の中では、最良といえるものであった。また電話線、アルミニウム、缶詰(SPAMやポークビーンズ)、毛皮のブーツ
なども同様に重要で、特に後者の供給はモスクワの冬期防衛にとって重要な利点となった。
ソ連に対する援助物資
レンドリースプログラム開始(1941年6月22日?又は1941年10月1日?)から1945年9月30日までの間にソ連に対して
出荷された軍需物資の合計を以下の表に示す。
航空機
14,795
戦車
7,056
ジープ
51,503
トラック
375,883
オートバイ 35,170
トラクター
8,071
銃
8,218
機関銃 131,633
爆発物
345,735 トン
建物設備
10,910,000 ドル
鉄道貨車
11,155
機関車
1,981
輸送船
90
対潜艦
105
魚雷艇 197
舶用エンジン
7,784
食糧 4,478,000
トン
機械と装備品 1,078,965,000 ドル
非鉄金属 802,000 トン
石油製品
2,670,000 トン
化学物質
842,000
トン
綿
106,893,000
トン
皮革
49,860
トン
タイヤ
3,786,000
軍靴
15,417,001 足
輸送は北極海の輸送船団、ペルシア回廊、太平洋ルートで行われた。
太平洋ルートはレンドリース援助のおよそ半分が運ばれ、アメリカ西海岸からソ連極東へ輸送船団で、ウラジオストクからは
シベリア鉄道で運ばれた。アメリカの参戦後、ソ連の船舶のみがこのルートでは使われ、日本による影響がいくらかあった。
アラスカとシベリアを結ぶ航空路はアルシブ(Alsib)と呼ばれ、航空機の輸送と旅客輸送に用いられた。
所見
ここで「英米合作經濟抗戰力調査
(其1)」の調査結果と史実を比べてみる。
・判決一 英国は軍需調達に対して約57億5000万ドルの絶対的供給不足となる。
単純計算で314億ドルの物資が1941年から1945年までの5年間の間にレンドリース法でアメリカからイギリスに提供されたとすると
年間62億8000万ドルとなるので十分抗戦可能だったことがわかる。
・判決二 米国は開戦一年乃至一年半後に於ける潜在力発揮の時期に於いては軍需資材138億ドルの供給余力を有する。
1941年から1945年までの5年間に総額501億ドルだったとすると、年間100億2000万ドルとなる。想定より少なくなるが
潜在力発揮の時期が開戦一年乃至一年半後とあるので順調に推移したとすると想定通りか?
・判決四 英本国は想定規模の戦争遂行には軍需補給基地としての米国との経済合作を絶対的条件とするを以って、これが成否を
決すべき57億5000万ドルに達する完成軍需品の海上輸送力がその致命的戦略点(弱点)を形成する。
アメリカとイギリスを結ぶ航路の大西洋は日本の及ぶところではないので完全にドイツ軍頼み。
・判決五 今後独伊の撃沈に依る船舶の喪失が続き英米の造船能力(最大限41年度250万トン、42年度400万トン)に対し喪失トン数が
超えるときは英の海上輸送力は最低必要量1100万トンを割ることとなり英国抗戦力は急激に低下すべきこと必定なり。
ドイツ軍のUボートがかなりの活躍を見せるが及ばず。日本軍がインド洋で通商破壊を実施すれば達成可能?
・判決七 英国抗戦力の外郭をなす属領・植民地に対する戦線を拡大して全面的消耗戦に導き且つ英本国抗戦力の給源を切断して
英国戦争経済の崩壊を策することも亦極めて有効なり。
日本軍によるマレーやビルマの攻略、インド洋の制圧で英本国の戦争経済を崩壊に追い込める?
イギリスもソ連もアメリカからの支援なしでは持ちこたえられなかった可能性が高い。
特にソ連の支援物資を見ただけでも膨大なのに、その約3倍もの支援物資をイギリスは受けている。
これらの物資を交戦国に行き渡らせないことが重要。やはりドイツと一緒になって通商破壊に専念するべきだったのか。
しかし、ソ連はフィンランドを侵略して国連を除名されたり、ポーランドをドイツと共謀して侵略したりやりたい放題してたのに
これほどアメリカから支援を受けるとは、やはり共産主義勢力がかなり浸透していたということなのか。
太平洋ルートがソ連に渡ったレンドリース援助のおよそ半分だったとは驚いた。
日米戦争が始まってからはかなり減少したであろうが、ソ連国旗を掲げる輸送船を野放しにしていたのは
かなりの問題を孕んでいたと思われる。日本はどうするべきだったのか?
ソ連はドイツ軍に攻め込まれたときに工場を疎開させていた時期があり、一時的に生産力が低下していたが
イランルートが重要な役割を果たして東部戦線南部におけるドイツ軍の攻勢(ブラウ作戦)を持ちこたえた。
兵器以外の支援物資の量にも驚く。確かにアメリカ以外の国は軍需生産に重点を置いていたので
国民生活や兵站面がおろそかになりやすい。日本が長期戦に耐えられなかったのもこのためだろう。
日本の敗因
真珠湾奇襲攻撃をやりアメリカの戦意を予想以上にあげてしまったこと
日本から遠く離れた不利な地域のガダルカナルで消耗戦に陥ったこと
ガダルカナルの泥沼により、日本の優位な時期を生かせず、他方面の作戦がほとんど中止となったこと
独伊との提携、西方進攻作戦を取らなかったこと
インド洋が連合国の弱点であったのに攻撃しなかったこと
統帥権が分立していて統一した戦争指導が行われなかったこと
共産主義勢力の策謀
とても参考になった本
「太平洋に消えた勝機
佐藤晃著 光文社」
インド洋の重要性と腹案の存在を教えてくれた。
「日米開戦 陸軍の勝算
林千勝著 祥伝社新書」
この一冊だけで大東亜戦争に勝算があったことが証明できる価値のある本。
「大東亜戦争
日本は「勝利の方程式」を持っていた! 茂木弘道著 ハート出版」
腹案通りに戦争を遂行していたらどうなっていたかを検証。
石原莞爾の証言やその他陸軍軍人の記録を見ても陸軍はアメリカ軍と本気で戦う気はなく西方作戦に意識が統一
されていたように思う。日本陸軍はかなり西亜作戦について真剣に考えていたということがよくわかってきたので、
完全にノーマークだった戦史叢書「大本営陸軍部
大東亜戦争開戦経緯(1)〜(5)」と「大本営陸軍部(1)〜(10)」
を読んで陸軍が何を考えどんな行動を取ろうとしていたのか調べてみたいと思う。
近衛文麿
野望と挫折 林千勝著 WAC 記2021/11/18
近衛文麿というと日本の重要な局面で首相として登場していたが、優柔不断で何も決断できず時流に流されて
結果的に日本を悪い方向に導いてしまったという印象しか持っていなかった。
或いは、尾崎秀実などの共産主義者が紛れ込んでいて操られていたのかもしれない。
しかし、この本を読んでみると近衛文麿はかなり積極的に活動していたということがわかって驚いた。
P13 五摂家
藤原氏嫡流の五摂家として、近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家がある。その筆頭が近衛家。
名門貴族の五摂家が全て藤原氏の血筋だったとは知らなかった。
P15 天皇陛下の前で座って足組み
彼は昭和天皇に政務を上奏するとき、椅子の背にもたれて座り、ながい足を組んだまま、ときには組みかえて、
すずしい顔をしていました。重臣たちであれば謹厳そのものの姿勢で立ったまま、ほとんど腰をかけなかった椅子です。
P25 英米本位の平和主義を排す
大正7年12月、近衛は「英米本位の平和主義を排す」と題する論文を27歳の時に発表する。
第一次大戦が終わってこれから戦勝国の英米と協調しなければならないこの時期にドイツの行動を擁護して、
英米を批判するような論文をなぜ発表したのか気にかかる。近衛は今後、この考えに基づいて行動する。
西園寺公望などの親英米派にとっては悩ましい存在であった。
P42 近衛の演説
ヒトラーには及ばないが、政治手法にプロパガンダを取り入れておりラジオの前で演説して喝采を浴びたりしていた。
P45 昭和研究会
昭和8年12月に昭和研究会が設立される。
昭和11年11月に昭和研究会設立趣意書が発表されて本格的に活動を開始する。
このときの常任委員は、後藤隆之助、蠟山政道、賀屋興宣、後藤文夫、佐々弘雄、松井春生、大蔵公望、東畑精一
唐沢俊樹、田島道治、山崎靖純、野崎龍七、高橋亀吉、那須皓などでした。
委員が青木一男、有田八郎、石黒忠篤、大河内正敏、風見章、小日山直登、瀧正雄、暉峻義等、湯沢三千男、津島寿一
津田信吾、古野伊之助、村田省蔵、吉田茂、吉野信次、膳桂之助らです。
その後、常任委員には、三木清、矢部貞治、笠信太郎が加わりました。
また宇都宮徳馬、平貞蔵、朝日新聞から尾崎秀実、大西斎、沢村克人、益田豊彦などが委員として参加しました。
この中にどれだけ共産主義者が含まれていたのか気になるところ。
P52 近衛内閣
第一次 昭和12年6月〜昭和14年1月
第二次・第三次 昭和15年7月〜昭和16年10月
近衛内閣の下で展開された出来事。
支那事変の拡大、「国民政府を相手とせず」声明発表。
支那事変遂行理念として「東亜新秩序」をうたい、さらには東南アジアを指向して「大東亜共栄圏」構想をうちだす。
国家総動員法、三国同盟締結、大政翼賛会、汪兆銘政府承認。
南部仏印進駐に同意して米英蘭の対日石油全面禁輸を招来し、大東亜戦争への道を完成した。
P65 支那事変
風見章日記を整理すると、次の諸点が風見及び近衛の政治行動の特徴を表していて注意をひく。
・支那事変の積極拡大志向
盧溝橋事件勃発の二日後、7月9日時点で杉山元陸軍大臣は
「陸軍首脳部は問題の解決困難ならざるして危機すでに去れるものと観測したる」と冷静で穏当な判断をしていた。
だが、近衛は二日後の7月11日に臨時閣議を開催。ここではやくも今回の事件に「北支事変」との呼称をつけ、
内地等から「北支派兵」を行う方針と派兵経費支出を決定した。しかし、現地では停戦協定が成立しており、派兵は保留となる。
このように情勢が収束に向かっていたにもかかわらず、近衛は「今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑いの余地なし」
とする強硬な声明文を発表し、国民や軍部を煽っていた。
海軍大臣米内光政も近衛や風見の企図に協力する。8月9日の第二次上海事件が起きると、米内は13日の閣議で断固膺懲をとなえ、
反対する閣僚を怒鳴りつけてまで陸軍派兵を主張したと言われる。海軍は中国各地を連日爆撃し、事変の戦火を拡大させた。
9月2日の閣議でこの戦争を「支那事変」と呼ぶことを決める。
米内は「日支全面戦争にとなったからには、南京を攻略するのが当然だ」と述べ政府声明の発出まで求めた。
驚いた杉山陸相は「参謀本部とよく話してみるが、対ソ戦も考慮せねばならぬから、大兵力は使えない」とあわてて答え、外相は
政府声明の発表に反対して不拡大論をとなえ、蔵相は財政経費の点から不満の意を表明する。
この後のトラウトマン和平交渉も、参謀本部は和平交渉継続を主張していたが、政府側と杉山陸相は交渉打ち切りを主張。
米内海相は内閣総辞職まで持ち出して強行に和平交渉打ち切りを主張して、打ち切り論に決着した。
P75 米内海相の謎
風見と米内とはとても親しい間柄でさかんに行き来や文通をしていました。風見が米内のもとへ出向くといつも山本五十六次官がいて、
三人で策を練っていました。
・日本での革命志向(支那事変は日本での革命の手段)
昭和13年3月24日に国家総動員法が成立する。この法案は憲法違反ではないかという疑義が多くの議員から出されるが近衛は押し切った。
昭和14年9月には風見らが東亜新秩序建設の構想を練ったものがあります。そこでは「憲法停止」「革命的手段」「大衆の蜂起」まで
もっていこうという考えが出てくる。
支那事変は中国共産党が仕組んだ「国共合作」の成果だけではなく、「日本政府中枢と中国共産党の合作」の成果でもあった。
・対ソ戦不拡大の徹底
昭和13年7月に起きた張鼓峰事件では、支那事変の場合とはうってかわって、不拡大が綿密かつ厳密に徹底されました。
「不拡大」はやろうと思えばできることが「風見章日記」において証明されているのです。
政府と陸軍は連絡を密にして不拡大の線で意思疎通を十分にはかり、現地も含めて陸軍全体にしっかりと我慢させたのです。
・近衛・蒋会談を勧めた石原莞爾参謀本部第一部長への誹謗中傷
参謀本部第一部長である石原莞爾少将は北支事変がはじまるや、ことはきわめて重大と、数日にして、和平にむけて近衛首相に
蒋介石との直接会談を提言します。
しかし、風見は屁理屈をつけて石原を非難し、不作為を意図し、事態を悪化させるように取りはからった。
近衛もこの大切な7月12日から19日までのあいだの時期、例のごとく病臥して自宅に引きこもって動こうとしなかった。
・独裁体制としての新党(一国一党)づくり、など
紙面では省略されていた。大政翼賛会の発足など?
P88 尾崎秀実
近衛のブレーンとして昭和研究会や朝飯会に参画し、さらには内閣嘱託として首相官邸にのりこんでいた。
尾崎は「諜報者」としての役割よりも「扇動者」としての役割の方が歴史的に重要な役割を果たした。
尾崎は支那問題について数多くの論文を発表している。中には、「日本が支那と始めたこの民族戦の結末を附けるためには、
軍事的能力をあく迄発揮して敵の指導部の中枢を殲滅する以外にない」「敵の王を殺すまで40年以上を覚悟して聖戦を完遂せよ」
など激烈で、和平の動きには激しい批判をしていた。
尾崎は昭和16年10月15日に検挙され、18日にはゾルゲが検挙された。
P117 松本重治
支那事変中の和平工作の中に宇垣・孔工作というのがあった。
茅野長知によってかなり進展していたのだが、ちょうど上海にいた松本重治にこの和平工作の話をしてしまった。
この頃、松本ら近衛グループは汪兆銘工作を行っており、近衛に裏切られる形で宇垣外相が突如辞任する。
「蒋介石政権を相手にせず」のいわゆる第一次近衛声明後に試みられた最も本格的な日支全面和平工作、宇垣・孔工作
は突如幕を閉じる。この後、漢口が陥落して国民政府は重慶に移る。蒋介石の国民政府は長期戦体制に入った。
P135 太平洋問題調査会
発足当初からの参加国はアメリカ、日本、中華民国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの6か国。
のちにこの地域に勢力圏を持つイギリス、フランス、オランダ、ソ連が参加する。
当初運営の中心であったハワイグループは政治問題よりも文化・経済問題の討議に重点を置いていた。
しかし、最大の支部である米国IPRはロックフェラー財団からの寄附金を獲得するために時事問題・政治問題を
積極的に取り上げるよう主張して対立する。昭和4年の京都会議の前後から主導権はハワイグループから米国IPRに移る。
昭和8年にエドワード・カーターが事務総長に就任すると、太平洋問題調査会は中立的な研究機関から日本の外交政策を
批判する政治団体へと性格をすっかり変える。太平洋問題調査会のメンバーの中に共産主義者たちが多く含まれていた。
気になった会議のみ取り上げる。
第三回京都会議(昭和4年秋・日本)
満州問題で日本と中国の激しい応酬があった。ここである事件が起きる。
日本代表団の主張と全く異なる反日的ステートメントが印刷され各国の参加者に配られてしまった。
「日本は高圧的で残酷で大陸を侵略するという過ちを犯している、日本の外交史を汚す幾多の過ちを弁護する積りはない」
などと主張し、「内地でも自由主義人が攻撃され、マルクス主義が禁制となり、進歩・自由にもとっている」と激しく
日本の内政をも糾弾する内容。この会議に参加していた蠟山政道、松本重治たちが加担していたと思われる。
第六回ヨセミテ会議(昭和11年夏・アメリカ)
この会議からソ連が正式参加。日本代表団の中に近衛文隆、牛場友彦、西園寺公一、尾崎秀実がいた。
表舞台とは違い裏舞台では共産主義者たちの社交場のような様相となっていた。
臨時ニューヨーク会議(昭和19年冬・アメリカ)
対日戦争や占領政策をめぐって「日本人の性格構造」を分析するために開かれた臨時会議。
この臨時会議では、日本研究者、精神分析学者、文化人類学者、社会学者など40人以上が参加。
諸講演にくわえて、日本兵が書いた日記の回覧や、日本のヒット映画『チョコレートと兵隊』(昭和13年
東宝映画)の上演
がなされ、日本人の性格が討議された。
「日本人の扱い方として儒教的な兄弟関係を用いればアメリカ側の強硬さも正当化できる」との提案や、「アメリカ国内では
日本人を黄色い猿とみなすプロパガンダが行われているため、いまさら親しい関係となるのは難しい」との意見も出されたと
言われている。本当にこのような人種的偏見に満ちた意見が出された会議であったなら、ただ唖然として驚くばかりです。
まさに太平洋問題調査会は日本包囲、日本叩き、敗戦後の日本統治研究の機関だったのです。
P149 第三章 レールを敷く
昭和15年7月17日、第二次近衛内閣が成立する。
組閣の前に国策方針についての申し合わせ「荻窪会談」が行われた。
ここで4つの事項が確認された。東亜新秩序建設のための日独伊枢軸の強化、日ソ不可侵協定の締結、英仏蘭葡の植民地を
東亜新秩序に包含するための積極的処理、そして米国の実力干渉を排除する固い決意。
これを基礎として7月26日、「基本国策要綱」を決定する。
昭和15年9月27日、大政翼賛会を置く事を閣議決定。日独伊三国同盟の調印が行われた日でもある。
天皇は新体制運動について、共産主義の件、そして「近衛幕府」あるいは「近衛党」の誕生を懸念していた。
近衛は天皇と衝突するのを避けるため新体制運動の性格をコントロールして、新党づくりを大政翼賛会へとむかわせた。
昭和15年11月19日、ついに昭和研究会は大政翼賛会に吸収されて発展的に解消するという形をとって解散する。
この後、程よいタイミングで相次いで共産主義者達が表舞台から退場していく。完全に日米戦争へのレールは敷かれていた。
P185 永野軍令部総長ご乱心
昭和16年6月11日の政府大本営連絡懇談会で、独ソ戦が近いとの内報を受けて杉山参謀総長は慎重な発言をする。
これを聞いた永野軍令部総長は猛然と反発。「仏印、タイに兵力行使のために基地を造ることは必要である。これを妨害
するものは、断乎として討ってよろしい。叩く必要がある場合には叩く」この永野のあまりにも唐突で強硬な発言に
出席者一同は呆気にとられた。
P185 近衛の野望
「支那事変から対米開戦へそして日本の全面的敗北、併せて天皇退位と米軍進駐、近衛による親米政権の樹立」が
覇権獲得にむけた近衛のメジャーシナリオです。そして、可能性が低いものの念のための想定としてマイナーシナリオが、
「ソ連をバックとした敗戦革命」でした。北進論すなわち対ソ戦はこのメジャーシナリオの進行を妨げるものであり、
同時にソ連の力を弱めるという観点からマイナーシナリオにも悪影響を与えます。共産主義者たちはマイナーシナリオ
のほうに没頭していました。
昭和16年6月22日、独ソ開戦。松岡外相や陸軍の一部は対ソ戦を主張するようになるが、近衛が必死で阻止していた。
北進論と南進論が激しく対立するなか、近衛は北進論を抑えるための代償として仏印進駐を決定する。
だが、当面は様子を見る事となったが、関特演は実行され対ソ戦の道は残された。
朝飯会のメンバー全員、特に尾崎や松本は必死に対ソ戦に反対していた。
7月16日、対ソ戦急先鋒の松岡外相を排除するため近衛内閣が総辞職する。
7月18日、第三次近衛内閣が成立。
7月28日、南部仏印への進駐が実行される。これに対してアメリカは資産凍結と石油輸出全面禁止に打って出てきた。
永野の思惑通りであり、近衛の望み通りとなった。
このような情勢の中、近衛は今後さらに数か月続く日米和平交渉をのちの戦争責任回避のためのアリバイとして「大切」
にしていった。ほとんど望みの無い日米首脳会談で局面を打開するという姿勢を見せた。
9月6日の御前会議で昭和天皇が読み上げた御製は「四方の海みな同胞とと思う世に などあだ波の立ち騒ぐらむ」だった。
明治天皇が詠んだ「波風」を昭和天皇は「あだ(敵)波」と替えられていた。
10月18日、近衛内閣総辞職。
P225 第四章 果報は寝て待つ
山本五十六を連合艦隊司令長官にしたのは米内光政。
永野軍令部総長は多くの反対を押し切って腹案に反する山本五十六連合艦隊司令長官の真珠湾攻撃を裁可する。
戦後、永野は巣鴨プリズンで昭和22年1月2日急性肺炎となり、3日後に死去する。まるで殺されたようだと言われています。
永野の死後、残された貴重な書類などが入ったトランクが列車内で盗まれてしまう。
近衛と山本はしばしば密に情報交換をしていた。昭和16年9月12日にも秘密裏に会っていた。
風見と山本もきわめて親密な仲だった。手紙のやり取りをしていて、終戦後風見は手紙をすべて焼却している。
風見の長男の回想によると、目についたのは近衛、山本、米内からの手紙で特に数が多かったという。
陸軍参謀本部第一部長(作戦)田中新一中将は業務日誌に「三月八日、戦争指導は恐るべき転換を来すかも知れない。
海軍の太平洋攻勢作戦が戦争指導の主宰者になる。三月十日、太平洋の積極作戦は国力速成の根幹をゆるがす。
不敗態勢の建設を第一義とする要あり。(中略)大東亜戦争指導は緒戦の終了と共に岐路に立てり。印度-西亜打通の重視」
と書き残しています。
支那事変拡大、南部仏印進駐、真珠湾攻撃そしてミッドウエー海戦、ガダルカナル攻防と亡国への水先案内人であった
米内光政、永野修身そして山本五十六は、近衛にとって敗戦にむけての実に頼もしい駒であったのです。
戦局が厳しくなっても、近衛はとりよせのうなぎを食べ、自動車はガソリンに不自由せず乗り放題で女のところへ通い、
ときにゴルフ三昧、用のない時は邸宅で寝ていた。
P253 第五章 戦後覇権を摑め
近衛文麿は、戦争責任回避のために「日米交渉」という「平和への努力」の証を用意するとともに、戦争責任転嫁
の理屈もしっかりと用意しました。いわゆる「皇道派史観」を利用してかたちづくった共産主義陰謀説です。
つまるところ「共産主義者と陸軍が悪かった」「近衛は騙されただけ」という理論武装です。
昭和20年2月14日、近衛は重臣として昭和天皇に拝謁上奏する。その内容は「近衛上奏文」として伝えられる。
近衛は自らについて、革新論者の「彼主張の背後に潜める意図を十分看取する能わざりしは、全く不明の致す所」と
述べています。「近衛上奏文」は、戦争責任を共産主義者らとそれに踊らされた陸軍「統制派」に責任転嫁しているのです。
しかし、真実は近衛が「彼等の主張の背後に潜める意図を十分看取し之を利用」したのです。
日本の敗戦は最初からプログラムの中に書き入れてあったのだ。この正確な筋書きを知っていた者として、
これまでの登場人物の中で、やはり近衛、風見、尾崎、後藤、帆足、西園寺、有馬、蠟山、佐々、笠、そして
牛場友彦、松本重治、白洲次郎、犬養健、有沢広巳あたりをあげないわけにはいきません。
近衛は戦争中から一貫して昭和天皇の退位を画策していた。あえて書かないがかなり過激な証言もでてくる。
昭和20年8月15日、近衛は活発に動き出す。マッカーサーとも会見している。
この会見で近衛は「共産主義陰謀説」を訴え、マッカーサーから「自由主義勢力を結集して、憲法改正のリーダーシップ
をとるように」「公はいわゆる封建的勢力の出身ではあるが、世界に通暁するコスモポリタンである。世界を広くみて
おられる。しかも公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励された。
ついに対米開戦以来狙っていた近衛覇権の実現につながる「近衛を頼りにする」というアメリカ側の姿勢(と近衛は思った)
を引き出した。
P315 第六章 最後の我が闘争
まもなく近衛に対する国内外からの非難攻撃が開始されます。
昭和20年10月29日の朝日新聞は、ニューヨーク・タイムスの社説「強制による自由」を紹介して、
「何回となく首相に就任し日本の圧迫政治に尽くした近衛公がマッカーサー元帥によって戦争犯罪人として牢獄に
抛り込まれたとしても、恐らく唯一人として驚くものはあるまい」と伝えた。
昭和20年11月5日、GHQ対敵諜報局調査分析課長ハーバート・ノーマンは、近衛はファシズム体制の構築と
アジア侵略・対米開戦に責任がある戦争犯罪人だとするレポート「戦争責任に関する覚書」をアチソンに提出する。
ノーマンの覚書は、近衛のことを「一貫して仕えてきた大義は己れ自身の野心にほかならない」「もっと権力を得ようと
たくらみ、中枢の要職に入り込み」「自分が現情勢において不可欠の人間であるようにほのめかす」など近衛の本質を
正確に言いあててます。ハーバート・ノーマンは、GHQの中枢にいた共産主義者であった。
昭和20年11月9日、近衛は東京湾に浮かぶ指揮艦アンコン号に連行され、米国戦略爆撃調査団から厳しい尋問と弾劾にあう。
近衛はすっかり自信を覆され帰りの車の中で「やられた、やられた」と独り言を繰り返した。
早晩確実に戦犯として逮捕命令が出されること、巣鴨拘置所に収容されること、極東国際軍事裁判(東京裁判)の被告となる
ことを確信する。近衛は裁判対策に本格的に取り組む。
昭和20年12月6日、ついに近衛にGHQから戦犯容疑者として逮捕命令が出ました。近衛はとくに驚きもせず落ち着いていた。
巣鴨拘置所に入所する日は16日で、10日の猶予があった。
近衛は数年間かけた万全の準備と考えぬかれた対策をもって裁判にのぞむ態勢を整えていたのです。
極東国際軍事裁判法廷の判事や検事らにとって、彼はもっとも手ごわい相手となるはずでした。そして連合国や
国際共産主義者たちにとっても、近衛はもっとも手ごわい公卿政治家であったのです。
P331 死の真実
昭和20年12月16日未明に近衛文麿は自殺する。
近衛文麿の自殺について色々な証言を元に検証している。証言が色々食い違っているし、ろくな検死もしていない。
不審な点は多いが、かといって誰かに殺されたという確証もない。ただ、取り乱した様子もなく安らかな最期だった
のは確かなようだ。
P353 近衛の遺書?
「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが所謂戦争犯罪人として米国の法廷に
於て裁判を受ける事は堪え難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ此事変解決を最大の使命とした。
そして此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人
として指名を受ける事は残念に思う。しかし僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさえそこに多少の知己が在することを
確信する。戦争に伴う昂奮と激情と、勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言
蜚語と是等一切の所謂世論なるものもいつかは冷静さを取り戻し正常に復する時も来よう。
是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」
感想
歴史の流れから近衛やその周辺の人物の言動を当てはめて作られたストーリーで、すべてを鵜呑みには出来ないが大枠は
この通りであったのではないかと思う。
林千勝先生は近衛のことをよく扇の要と表現している。重要な局面ではこの扇をどちらにも倒せる立場にあった。
支那事変拡大、蒋介石との和平放棄、国家総動員法可決、三国同盟締結、大政翼賛会設立、南進論推進など。
これらを近衛の意思で決定していたとなると今までの常識が覆る。
よくいわれる軍部の圧力や暴走では無かったし、近衛文麿は平和主義者でもなかった。
確かに当時首相だったからといって何もかも自分の思い通りにはならないとは思うが、日本を滅亡へ導く方向に
舵を切ろうとしていたことは間違いないだろう。
それと昭和研究会や朝飯会など近衛のブレーンには共産主義者が数多くいた。
近衛はこれらに利用されたのではなく逆に利用していたというのは驚いた。
それと、戦争を誘発しておきながら戦時中、国民が苦しんでいる中悠然と過ごして機会をうかがっていた近衛や共産主義者
達のしたたかさが本当に不気味というか恐ろしく感じる。
それにしても海軍は本当にひどい。陸軍はしっかりと戦争を終わらせる方法を考えていたのに、海軍は勝手な行動ばかりで
戦争を終わらせる方法を全く考えず、単に暴れまわっただけではないか。
さすがにないとは思うが、米内光政、永野修身、山本五十六は本当にスパイだったのか?怪しい言動が多い
この辺りはもっと研究されるべきだろうけど、証拠などはもう残ってはないだろう。
しかし、またしても歴史観が変わるような本を出した林千勝先生は凄い人だ。参考文献を見ただけでもかなり詳細に調べた
うえで書かれた本だというのがうかがえる。
近衛文麿の自殺について
共産主義陰謀説を展開していたので利用された共産主義者達(GHQの中にもいた)からは恨まれていたかもしれないし、
法廷に立たれては困ると思われて殺された可能性も無いとは言い切れない。松本重治と牛場友彦が隣の部屋にいたと
いうのも不気味だ。著者は薬物注射を疑っている。だが、家族も含めて多くの人間が荻外荘にいたのでそんな中で
殺されたとも思えないし何とも言えない。
まとめ
近衛文麿の目標 藤原幕府(一国一党の党首?)
利害が一致した共産主義者達をブレーンとして利用
プロパガンダ手法を使った人気の獲得、翼賛政治、権力の掌握
支那事変誘発→長期化を策謀→日本の衰退→欧米との戦争に追い込み敗戦に導く
後戻りできない状況を作って病気を理由に責任回避して人気保持
平和主義者アピール、戦争の責任を共産主義者や陸軍に押し付け、
天皇にまで責任を取らせようと退位を目論む。
敗戦革命、アメリカ軍進駐両構えの態勢で臨む。
いち早くマッカーサーに会い、野望が成就されようとしていた。
しかし、GHQの中に入り込んでいた共産主義者達から攻撃され戦犯容疑者となる。
尚も諦めず法廷で戦う準備をしていたが自殺。(殺された?)
或いは「英米本位の平和主義を排す」の理想を本気で実現させようとした?
尾崎他共産主義者達の目標 敗戦革命
近衛のブレーンとして政治の中枢に入る
支那事変誘発→長期化を策謀→日本の衰退→欧米との戦争に追い込み敗戦に導く
対ソ戦の阻止、敗戦の混乱に乗じて、或いはソ連の力を借りて革命を起こす
敗戦革命を目指すもアメリカ軍の進駐、近衛の裏切りで挫折。
林千勝氏について
日本は大東亜戦争に勝てたと堂々と公言する人物が現れようとは夢にも思わなかった。実に清々しい。
しかも、膨大な資料を読んだうえで導き出された結論であり、いまだ明確な反論は見たことが無い。
一昔前なら頭がおかしい人扱いされてただろうし、実際明確に勝てるビジョンは無かった。
今では「日米開戦
陸軍の勝算」を読んだと思われる人たちが、こうやればあの戦争に勝てたという
動画をあげてるので大分広まってきたと思う。
他にも近衛文麿の本で今まで知らなかったことを多く知る事ができた。
この人の想像力、洞察力、調査力、分析力は本当にすごいと思う。
膨大な一次資料を調べて理論を組み立て意外な結論を導き出す。
あのユダヤ陰謀論でさえも証明してしまいそうな勢いだ。
他に「日米戦争を策謀したのは誰だ!」と「ザ・ロスチャイルド」という本を出しているので読んでみようと思う。
日米戦争を策謀したのは誰だ!―ロックフェラー、ルーズベルト、近衛文麿そしてフーバーは 林千勝著 WAC 記2021/12/30
林千勝先生の本は一次資料からの引用が多くて内容が濃いのでどうしても列記することが増えてしまいます。
しかも従来と違った視点から物事をとらえているので知らないことが多くてとても勉強になります。
前半部分はフーバーの「裏切られた自由」からの引用が多く、アメリカの内情がよくわかりました。
後半部分は前作「近衛文麿」と重複する部分が多かったです。日本の内情がよく分かります。
フーバーはルーズベルトに対しては鋭い指摘をしていますが、日本に対する認識は今一つで世間一般で
思われているような認識しか持っていなかった。関心が薄かったのかもしれない。
日本ももっとフーバーに対して働きかけていたら歴史は変わっていたのかもしれません。
P16 世界の石油産出額に占める割合
1927年、アメリカ64%、ソビエト24%、蘭領東インド3%、イラン2%
1934年、アメリカ61%、ソビエト11%、ルーマニア4%、イラン4%、蘭領東インド3%
アメリカでは、ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー一世率いるスタンダード石油会社系が早くから
石油の9割以上を取り扱い圧倒的なシェアを占めて支配的でした。スタンダード石油会社系の最盛期のシェアは7割以上です。
これに次ぐものは、イギリスのロスチャイルド資本で蘭領東インドに本拠地があるローヤル・ダッチ・シェル、および
イギリス政府資本でイランにあるアングロ・ペルシァン石油会社でした。
P17 自動車の普及
1929年にはアメリカは世界の自動車生産の約90%、1934年には287万台で74%を占めています。アメリカ人の
自動車保有台数は2400万台で、5人に1台の割合でした。ちなみにこの年の日本での自動車生産台数は2800台です。
P28 国際金融資本家
第二次世界大戦は、国際金融資本家の下でソビエトとコミンテルン(共産主義インターナショナル)が裏舞台を仕組んだ
戦争であるという説が唱えられています。国際金融資本家はソビエトの建国を始めとして国際共産主義の勢力拡大に努め、
第二次世界大戦によって東西陣営が相対立する冷戦構造をつくりあげたとの説もあります。
P44 ソビエト連邦の国家承認
ソビエト連邦は1922年に成立。ドイツが同年、イギリスやフランスは1924年、日本は1925年に国家承認していますが、
フーバーを始めとして反共思想が強いアメリカは、ルーズベルト以前にはソビエトを承認しませんでした。
しかし、1933年11月、政権発足から8か月後にルーズベルト政権は国家承認をしました。
P45 アメリカ国民に対するモスクワの工作
1.アメリカ共産党による親ソ的な国民世論の形成活動
2.国内の主要な労働組合の支配
3.本来であれば何の害もない組織の乗っ取り(たとえば太平洋問題調査会)
4.共産主義者や共産主義シンパをルーズベルト政権の各組織上層部に潜り込ませ政策決定に関与
P45 1935年7月のウィリアム・C・ブリット駐ソ大使(後に駐仏大使)からのハル国務長官宛の報告書の中に
「ソビエトはアメリカが日本と戦ってくれることを渇望している」「ソビエトの狙いは・・・日米関係の敵対関係化」
とあり日本にとって重大事でありこの通りとなります。
P48 アメリカ共産党
アメリカ共産党は1919年に、本部をニューヨークに置いて結成されます。数年で党員数6万人まで拡大し、
ルーズベルト政権下では更なる大組織となりました。フーバーは、共産主義者の工作が「戦争か平和かの判断に大きな影響
を与え」、アメリカに大きな厄災をもたらしたと主張します。
P56 干渉主義
1937年10月5日、ルーズベルト大統領がシカゴで唐突に行った次の演説は「隔離演説」と呼ばれています。
「世界の90パーセントの国々の和平や自由が、10パーセントの国によって脅かされている。国際秩序、国際法は
危機に瀕している。(中略)残念ながら世界中で法秩序が崩壊している。これが伝染性のある病の結果であったなら、
感染者は隔離しなくてはならない。そうしなければ、共同体を病気の蔓延から守ることができないからである」
ルーズベルト大統領の外交が「干渉主義」へ踏み出した瞬間です。「隔離」すべき対象国として日本やドイツ、
イタリアを念頭に置いています。しかし何故か同じ全体主義であって和平と自由を脅かすスターリンのソビエトは
除外されます。これが問題です。
ルーズベルト大統領は1938年10月の日本軍による武漢攻略作戦後、対日武器輸出制限措置を発動します。
その一方で、中国による武器購入には便宜を図り、特別融資も供与します。
1939年3月、ルーズベルトは、融通性に欠ける中立法の問題点を指摘しました。7月、ルーズベルトは議会に対して
中立法の修正を促しました。ハル国務長官も声明を出し修正を求めます。しかしこのとき世論への迎合も忘れません。
「我が国は、他国の同盟関係のごたごたや紛争に巻き込まれてはならない。戦争が起きても我が国は、徹底した
中立の立場を取り、戦争に引きずり込まれるようなことがあってはならない」
戦争には関わらないとしっかりと述べるのです。本音とは真逆です。
大統領選挙の終盤、1940年10月30日にルーズベルトが主張した。「私は母であり、あるいは父であるあなたがたに
話すにあたって、いま一つの保証を与える。私は以前にもこれを述べたことがあるが、今後何度でも繰り返し言う
つもりである。あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることもない」「われわれの外交政策の
第一の目的は、米国を戦争に参加させないことである」
米国津々浦々の有権者は、合衆国大統領によってなされたこれらの公然たる和平の約束を信じ、拍手喝采を送ったのです。
一方、大統領選挙期間中、アメリカ国内に戦争介入を要求する数多くの「干渉主義」の団体が作られ、そのほとんどが
ニューヨークで組織されていたのです。こうした団体が発した声明や新聞広告は百を超えたのです。
みなヨーロッパへの介入を主張するものでした。これらの団体のうち一体いくつがロックフェラー財団の支援や指導を
受けていたのでしょう。結局、大統領選はルーズベルトが勝利しました。前例のない3期目です。
P62 武器貸与法という策謀
1941年1月10日、「武器貸与法案」という法案が連邦議会に上程されました。驚いたことにこの法案は単純な軍需物資の
供与の法案ではなく、物資の輸送にアメリカ海軍を関与させる条項が入っていたのです。更に問題なのは、宣戦布告の
権限を議会から剝奪し大統領権限にできるという条項が含まれていたことです。
法案を見てフーバー達は反発するが、若干の修正を加えて成立する。
1941年6月、ドイツのソビエト攻撃が始まるとアメリカはすぐにソビエトの支援に乗り出す。
P80 フーバー前大統領
1928年の大統領選挙で共和党候補としてフーバーは勝利する。翌年3月にフーバー政権が発足するが、1929年10月に
大恐慌が起きる。大恐慌のあおりを受け、フーバーは1932年の大統領選挙で民主党のルーズベルト候補に40州以上で
敗れるという歴史的な大敗北を喫します。この後、ルーズベルト大統領の下で生起する3年8か月にわたる不毛で過酷な
日米戦争を、前大統領のフーバーは「ルーズベルトというたった一人の狂人が引き起こした」と糾弾することになります。
「日本はペリー艦隊が1853年に来航して以来、アメリカの国益を一度として損ねたことがなかったにもかかわらず、
ルーズベルト政権によって戦争を強いられたのだ」
フーバーを中心とする「平和」を保とうとした陣営には、リンドバーグ、フィッシュ、ビーアドなどがいた。
フーバーは断言します。「ルーズベルトが約束した世界平和の保持という視点からソビエトの行動を見たい。ソビエトは
この面でも約束を破っている。ソビエトは、ポーランド、フィンランド、ラトヴィア、エストニア、リトアニア、ベッサラビア
に侵攻した。こうした国からの挑発は一切なかったにもかかわらずである。これらの国のほとんどが民主主義国家だった。
しかし、いまでは共産主義に隷属してしまっている。ルーズベルト氏は、そうした侵略行為を倫理的に許さないとしていたの
ではなかったか。ところがこの数か月の間、ルーズベルト政権はソビエトに宥和政策を取っている。ロシアに工作機械や
航空用燃料を送り、ご機嫌を取っている。(中略)これがルーズベルトによる平和のための協力の実態であります。ますます
その協力の度合いは高まるに違いない」
1938年1月15日、フーバーは前大統領として、アメリカがこれから採るべき外交政策についてラジオを通じてアメリカ国民に
語りかけました。
「アメリカ国民は攻撃を受けることがあれば、すべての力と精神力を動員して最後まで戦うことを覚悟しなくてはならない。
そうすることでしか我が国の独立は維持できない。戦いの覚悟を持つことが我が国に対する攻撃への防御そのものである」
「同時に自制も必要である。我々が戦うのはあくまでも攻撃された場合である。そうでなければ中立の立場を取るべきである。
我が軍を、多国間の戦いの始まりを防ぐため、といった理由で介入させるようなことがあってはならない」「同様の思惑で、
他国に対して経済制裁や禁輸などという措置をとってはならない。むしろ経済発展と国民の幸福を求めて他国と協力すること
が肝要である」
不干渉主義のフーバーと干渉主義のルーズベルトの間で熾烈な戦いが繰り広げられた。
P127 アメリカの世論調査
「ドイツに宣戦布告して、陸海軍を外国の地に遣ることに賛成ですか」の質問に対する回答
1939年9月(戦争勃発時)
はい6%
いいえ94%
1939年10月
はい5%
いいえ95%
1939年12月
はい3.5% いいえ96.5%
1940年4月(ノルウェー侵攻時)
はい3.7% いいえ96.3%
1940年5月(フランス侵攻時) はい7%
いいえ93%
対ドイツ、イタリアへの宣戦布告についての回答
1940年7月7日(フランス降伏時) はい14% いいえ86%
1940年7月15日
はい15% いいえ85%
1940年10月13日
はい17% いいえ83%
1940年12月29日
はい12% いいえ88%
1941年2月1日
はい15% いいえ85%
1941年2月16日
はい21% いいえ79%
1941年7月9日(ヒトラーの対露戦開始) はい21% いいえ79%
圧倒的に「いいえ」です。「平和」の側が「戦争」の側に対して圧倒的に優位を保っていたのです。
P135 真珠湾攻撃
アメリカ国民もアメリカ議会も、“真珠湾攻撃”までは圧倒的にアメリカの参戦に反対でした。
既出の世論調査の結果がそれを示しています。アメリカ国民もアメリカ議会もルーズベルトの「繰り返し若者を戦場に送らない」
とのまやかしの約束や、対独戦争のための軍事増強、武器貸与、イギリス船団の護衛、対日経済制裁などの政策を「すべてアメリカ
が戦争に巻き込まれないための方策だ」というごまかしの説明を受けていました。
P139 狂人
終戦後の1946年5月、フーバーは東京でダグラス・マッカーサー将軍に会い次のようにはっきりと述べた。
「日本との戦いは戦争をしたくて仕方のない狂人が望んだことだ」
「狂人」はルーズベルトを指しています。マッカーサー将軍は彼の意見に同意し、更に1941年7月の対日経済制裁は挑発行為であった
点も考えを同じくしていました。
P141 フーバーは、ルーズベルト大統領の一連の「戦争」への企みを次のように総括します。
「ルーズベルトは国民をまったく必要もない戦争に巻き込みとんでもない厄災を招いた。エゴイズム、悪魔的な陰謀、知性の
かけらもない不誠実さ、嘘、憲法無視。これが彼のやり方に際立っていた」「彼の不誠実さをはっきりと示しているのは、
三年間にわたって、アメリカ国民に若者を戦争に送り出すことはないと約束し続けていながら、実際は参戦に向けた外交を
繰り広げたことである。ドイツには憲法に違反する宣戦布告なき戦いを始めていた。真実とは違う説明で、国民に(ドイツへの)
恐怖と憎しみを煽った。不干渉を主張する人々には悪意ある中傷を続けた。武器貸与法の本当の意図を隠した。日本の反撃を
確実にする対日経済制裁を行った。近衛からの和平提案を拒否した。英国との軍事協定でポルトガル(領土)と日本への攻撃を、
議会の承認もなく決定した。国民に対して(第一次世界大戦に続く)第二の自由を守るための『十字軍』を要求した」「歴史は、
ルーズベルト氏の政治家としての資質を問い続けるに違いない。・・・共産国家ソビエトとの同盟、太平洋方面での講和を
探る動きへの度重なる拒否、国民の恐怖(アメリカが攻撃される可能性)を煽る一二のスピーチにある嘘。そして最後に強調
しなくてはならないのは、我が国の(開戦権限に関わる)憲法の規定への抵触である。こうした問題は、日本が真珠湾を攻撃した、
という事実を指摘するだけで免罪にはならない」
P185 公卿
戦後は戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容された武藤章は、次のように記しています。
「明治天皇は英明であらせられて、維新の功臣たちを周囲に置かれた。彼らは公卿ではなかった。
大正、昭和の御代となるに従い、明治の老臣は亡び、逐次再び公卿又は公卿化された人々が天皇の周囲に集まった。
彼らは或る勢力と或る勢力とを争わせて、その間に漁夫の利を占めることを能とする。・・・日本の歴史は公卿の
罪悪を隠蔽して、武家の罪のみを挙示する傾きがある。大東亜戦争の責任も軍人のみが負うことになった。武人分に疎く
して歴史を書かず、日本の歴史は大抵公卿もしくはこれに類する徒が書いたのだから、甚しく歪曲したものと見ねばならぬ」
P190 近衛の「先手論」
近衛は「漫然たる国際協調主義に終始せず、世界の動向と日本の運命、国民の運命の道を深く認識して、常に軍人の先手を
打って革新の実を行う以外ない」と主張し始めます。いわゆる近衛の「先手論」です。表面は「政治主導」の主張ですが、
風見章とのコンビで軍の先手を打ち政治が軍を煽っていくのです。
P192 近衛とルーズベルト
近衛が日本で果たした歴史的役割は、ルーズベルトがアメリカで果たした歴史的役割と似ています。
近衛は共産主義者や国際金融資本家と繋がりがある者たちを身近に登用します。共産主義者たちは日本破壊の推進役、
国際金融資本系列の面々はそのサポート役です。近衛の知らぬことですが、彼らは近衛の監視役でもあります。
従来あまり言われてこなかったのですが、共産主義者たちを政権中枢や政権周辺に招き入れたとう点で、近衛と
ルーズベルトが共通点を持つということは大事な真実です。但し、ルーズベルトと近衛では動機が違っていました。
近衛は己の野望のために、ルーズベルトは国際金融資本のお抱え大統領としての役割を果たしていました。
P195 近衛の野望
彼の真意は、実は、昭和天皇を廃して、藤原氏の筆頭として自らの覇権を打ち立てることにあったのです。
そのために、共産主義者たちを利用して戦争を泥沼化させて大日本帝国を存亡の淵に陥れ、アメリカ軍をして皇軍を
潰させるのです。皇軍を失い丸裸となり、かつ敗戦の結果として戦争責任を負う昭和天皇には退位して貰い、進駐して
くるアメリカ軍を御しながら文麿が国の統治を担うのです。正に二十世紀の「藤原道長」です。
P257 中英関係
イギリスの本格的な蒋介石支援の契機も西安事件でした。それまでの中英関係は、基本的には敵対関係でした。
昭和2年(1927年)に蒋介石政権が、漢口、九江のイギリス租界を実力によって回収して以来の英貨排斥が続いていたのです。
ところが西安事件に際して、イギリスが蒋介石の生命を保証する国際的な動きのイニシアチブをとったことから、中英関係は
劇的に好転しました。中国はアヘン戦争以来ほとんど初めて新英的となったのです。新英的となった中国は、昭和13年(1938年)
1月には日本が参加していた四国借款団を無視する形で、イギリスに対して借款を申し入れて対英関係をどんどん改善したのです。
P299 北進は有効だった?
日本による対ソ開戦論は世界的にみても妥当なもので、チャーチルやアメリカのウデマイヤー将軍が共にのちに次の如く
回顧しています。「日本が第二次世界大戦で勝者となれる唯一最大のチャンスは、独ソ戦勃発時に北進してソビエトを攻撃し、
ドイツと組んでソビエトを東西から挟み撃ちにすることだった。この絶好の機会を日本はみすみす逃した。日本が北進せず
南進して、アメリカとの戦争に突入してくれたことは、我々にとっては最大の幸福であった」
P384 世界の苦悩
20世紀末、ソビエトが崩壊、「自由世界が勝利した」と歓喜の声が沸き起こりました。しかし21世紀初頭、国際主義者たちは
共産中国の拡大に力を貸し、米ソに替わる米中二極の"新冷戦"構造をつくろうとします。地球上の「伝統的な富の格差」は、
引き続き冷戦の陰に隠れます。二つの超大国が鎬を削れば、そこに軍事・化学・産業など、必然的に莫大な経済的利益が
生じます。
感想
今までの大統領はずっと控えてきたのだが、ルーズベルトは大統領になるとすぐにソビエト連邦の国家承認をする。
すると、たちまち共産主義者たちの勢いが増してきて政府の中枢にまで入り込む。
ルーズベルトはずっと国民に戦争はしないと訴えかける一方、ドイツや日本などには厳しく対応し干渉主義を行う。
しかし、何故かソ連に対しては他国を侵略しようが一切批判はせず、逆に膨大な支援を行う。
武器貸与法なども成立させ、軍艦で輸送船を護衛しながらイギリスに援助物資を送る。時にはドイツの潜水艦に
爆雷攻撃を行い何とか戦争に参加しようと目論むが、ヒトラーは自重して一切反撃はしなかった。
尚もルーズベルト陣営は、ヒトラーがアメリカに攻めてくると恐怖心を煽って何とか戦争に参加しようとしていた。
一方で、元大統領のフーバーはルーズベルトの危険性を見抜いてこのままでは戦争に巻き込まれると糾弾を開始する。
アメリカが直接攻撃を受ければ戦うが、他国に対しては経済制裁や禁輸などはしないという不干渉主義を主張する。
アメリカの世論調査では、ルーズベルトの努力もむなしく圧倒的に戦争反対派が多かった。
どうしても戦争に参加したかったルーズベルトは今度は日本に目をつけ、次々と経済的圧迫を加えていく。
本当は戦争をしないのが一番いいのだが、アメリカ、特にルーズベルトが戦争をしたがっている以上どうにもならない。
日本が大東亜戦争に勝利する鍵として、当時のアメリカの状況がどうであったかはとても重要である。
もし日米戦争になった場合、日本に勝ち目はない。アメリカの議会や世論に訴えかけて戦争を早期に終わらせる、限定戦争に
持ち込む必要があった。
平和側のフーバーでさえも、アメリカが直接攻撃されたり脅威を受ければ全力で戦うと言っている。
史実でアメリカがあそこまで戦意を燃やして日本に対抗してきたのも、実際はどうであれ日本が突如真珠湾の騙し討ち攻撃を
してきたと受け取ったこと、ドイツとは違って強力な海軍を保有していたので、アメリカ本土が直接的な脅威にさらされてし
まったからだろう。日本海軍の潜水艦によるアメリカ沿岸に対する砲撃も身に迫る脅威と受け取ったかもしれない。
そう考えると、アメリカに対する攻撃はフィリピンだけにとどめておくべきだったと思われる。
日本が太平洋に勢力を伸ばさなければアメリカはそれほど脅威を受けず、アメリカ議会ではフィリピンが攻撃されたぐらいでは
主力艦隊を送ることすら決めかねたか、フィリピンを放棄していたかもしれない。
フーバーなどの不干渉派も動きやすかっただろうし、日系人が強制収容所に送られなければ対米工作もしやすかったはず。
アメリカとの早期和平も夢ではなかったかもしれない。
アメリカには当時、ルーズベルトと争っていたフーバーという強力な味方?がいたことが分かったのは大きな収穫だった。
国際金融資本の目的は何なのか?
国際金融資本家と共産主義勢力は協力関係にあった模様。
共産主義者や共産主義系列の人物はソ連を助け、自国又は他の国同士を戦わせて疲弊させたり混乱させて敗戦革命に導き、
世界を共産化させるというわかりやすい目標があった。
しかし、国際金融資本特にロックフェラーが日米戦争に大きく関わっていたのは分かったが、いったい何を目指して
日本を敵視したりアメリカを戦争に導こうとしたのか、又、ソ連を支援していたのかがいまいちわからなかった。
国際金融資本系列として、牛場友彦、白洲次郎、松本重治の名前が出てきて、ロックフェラーやロスチャイルド
関連の人物と仲が良く優遇されていたのは分かったが、どんな指令を受けていたのかはいまいちわからなかった。
最後にちょっと出てきた
「二つの超大国が鎬を削れば、そこに軍事・化学・産業など、必然的に莫大な経済的利益が生じます。」
というのを見ると、戦争や対立を煽ることで利益を得ることが目的という事か。
それと国際金融資本家にとって大日本帝国が邪魔だったので潰したかったのかもしれない。
北進論について
日本はドイツと一緒になってソ連を攻めていたら良かったとたまに見かけるが、当時の状況で北進なんて論外だと思っていたが
案外悪くなかったのかなと思えてきた。
中立条約を結んですぐに攻めるというのも問題あると思うが、世界が混沌としている状況でもあるし、ソ連も片っ端から周辺諸国と
不可侵条約を結んでは一方的に破棄して攻め込むということをしているので、ソ連が日本を非難しても同調する国は少なかった
だろうと思われる。
日本がソ連と戦えば南進策は取られず南部仏印進駐もなくなりとりあえず英米との対立は緩和されたかもしれない。
支那事変はどうなるかわからないが、兵力を満州に集めるため思い切った和平か戦線縮小がなされたかもしれない。
沿海州や樺太は海軍兵力を利用すればほぼ制圧できただろう。少ないとはいえ樺太油田で貴重な石油も手に入る。
ドイツ軍にも有利に働くし、モスクワが落ちればアメリカからのレンドリースもなくなっていたかもしれない。
アメリカの援助がない状況で日独を敵に回したらソ連はどうなっていたかわからない。
何の資源もないシベリアに攻めてもしょうがない気もするが、南進して英米と対立するよりはましだし、共産主義の脅威を取り除く
事ができればかなりの収穫にはなるだろう。
チャーチルやウデマイヤー将軍がソ連を攻めていたら日本は勝者になれるチャンスがあったと言っているのも興味深い。
もし北進していたらどうなっていたかも興味が湧いてきた。
ザ・ロスチャイルド 大英帝国を乗っ取り世界を支配した一族の物語 林千勝著 経営科学出版 記2022/02/03
ちょっと高い本だしユダヤ関連はあまり深入りしない方がよさそうな気もするが林千勝先生の本だし、今までの本が
値段以上の価値のある本だったのでお布施の意味も込めて購入してみました。
初代ロスチャイルドがマイアーで、ユダヤ人として迫害されていたが金儲けがうまく巨利を得る。
5人の息子を各地に送り商会を作る。フランクフルトにはアムシェル、ウイーンにはサロモン、ロンドンにはネイサン、ナポリにはカール、
パリにはジェームズ。彼らを5本の矢として結束を固めさせる。
マイアーが亡くなると、商才と業績があった3男のネイサンが総主を継いでロスチャイルド二世となる。
ネイサンはワーテルローの戦いでのイギリスの勝利をいち早く知り、イギリス国債を底値で買い集めて、イギリスが勝ったと伝わって
国債が暴騰した時に高値で処分するなどして、莫大な富をさらに7万倍にも増やした。
1820年代、30年代を通じて、5兄弟が重要な取引をしていた政府はオーストリア、イギリス、フランス、プロシア、ドイツ諸国、
ベルギー、ナポリ、スペイン、ポルトガル、ブラジルなどに及んでいた。
ロスチャイルド家はヨーロッパ中の王室をも顧客にし、ヨーロッパ中の王室が同家に金を無心した。
ロスチャイルド家はアメリカにも勢力を伸ばそうとするが、ジャクソン大統領によって一旦は阻止される。
だが、様々な手段を使って徐々に浸透していく。
1836年7月、ネイサンが死去するとパリ家のジェームズがロスチャイルド家の総主となる。
ネイサンの長男ライオネルはロンドン家を継ぐ。
ライオネルはイギリスでユダヤ人が議員になれるようにするなどして金融だけではなく政界にも勢力を拡大していった。
ロスチャイルド家は日露戦争や日露戦争後の日本にも多額の支援を行った。
アメリカでついに連邦準備制度を作り上げることに成功する。その後、第一次世界大戦が起こると連邦準備制度は
イギリスをはじめ連合国に多額の資金を供給して、人類史上稀にみる大戦争が実現した。
ロシア革命にも多くのユダヤ人が関わっており、革命を通じてロシアを牛耳る勢いであった。
ユダヤ人は長年ロシア人から迫害を受けていたので、凄惨な復讐戦が行われ多くのロシア人が虐殺された。
国際金融資本家の方策
1.グローバリズム(世界市場、反ナショナリズム、ワン・ワールド、国連、EU)
2.分割支配(二極冷戦構造:米ソ構造から米中構造へ)
3.軍事ビジネス
感想
ロスチャイルド家やユダヤ人が色々な出来事に暗躍していたのはよくわかったし断定している部分も多くあるが、
囁かれるとか噂されるとか言われているといったような曖昧な部分も多いのが少し気になった。
ユダヤ陰謀論にかなり近づいてはいるけどまだ完全に迫り切れていない気もします。
まだ続くみたいなので今後どうなるか気になるところですが、林千勝先生にはもっと日本の近現代史を掘り下げて
欲しかったです。これ以上深入りするのは危険な気がするし専門外になるのでまた戦史研究に戻ろうかと思います。
世界が隠蔽した日本の核実験成功 核保有こそ安価で確実な抑止力 矢野義昭著 勉誠出版 記2022/04/18
去年の8月頃ネットで原爆について調べていたら、たまたま日本が終戦間際に核実験に成功していたという恐るべき情報を摑んだので
詳しく知りたいと思って見つけたのがこの本でした。この本の元となったと思われる「成功していた日本の原爆実験」という本もあって
一緒に図書館で借りようと思ったらちょうど夏休みで2冊とも貸し出し中になっていたので、値段の安かったこちらの本のみ購入すること
にしました。すぐ読むつもりだったのだが、「日米開戦
陸軍の勝算」他一連の本を優先して読んだので後回しになっていました。ともかく、
とても信じられない気がするのだが一部メディア(ロシア、中国、北朝鮮)では日本が戦時中核実験に成功していたとの報道がなされてい
たらしい。反日プロパガンダに利用されてるだけのような気もするが、どうやら全くのでたらめというわけではないようで、いくつかの興味
深い事実が明らかになってきた。この本はロバート・K・ウィルコックス氏の著作と研究が元となっている。
P9 日本が第二次大戦中に核開発を進め、興南の沖合の小島で1945年8月12日に核実験に成功していたことは、本書で後述している
ように、各種資料、特に米政府内部で秘密文書に基づき調査していたトニー・トルバとドワイト・R・ライダーの発言からも、明らかである。
P42 ディビッド・スネルによる日本人士官「ワカバヤシ」からの聴き取り内容の抜粋
「興南の山中の洞窟で人々は、時間と競争で、日本側が原爆につけた名前である「原子爆弾」の最終的な組み立て作業を行った。
それは日本時間で1945年8月10日のことであり、広島で原爆の閃光が光ったわずか4日後、日本の降伏の5日前であった。
北方では、ロシア人の群れが満州になだれ込んでいた。その日の真夜中過ぎ、日本のトラックの車列が洞窟の入口の歩哨線を
通過した。トラックは谷を越えて眠りについている村を過ぎていった。冷え込んだ夜明け前に、日本人の科学者と技術者のたちは、
興南の船に「原子爆弾」を搭載した。沖合の、日本海の小島の近くで、さらに大急ぎで準備が進められた。その日は1日中古い船、
ジャンク、漁船が投錨地に入っていった。8月12日の明け方、ロボット式のボートがポンポンと音を立てて錨の周りの船の間を抜けて、
小島に達着した。ボートに乗っていたのは「原子爆弾」だった。観測者は20マイル離れたところにいた。これまで過酷な作業に
取り組んできた男たちは、その完成が遅すぎたことを知っていた。日本がある、東の方が明るくなり、ますます輝きを増した。
その瞬間、海の向こうに太陽は顔をのぞかせていたものの、爆発的閃光が投錨地に照り輝き、溶接工用の眼鏡をかけていた観測者
が盲目になった。火球の直径は1000ヤードと見積もられた。様々の色をした蒸気雲が天空に立ち上り、成層圏にまで達するきのこ雲
になった。激しい水と水蒸気によりかき回され、爆発点の真下にあった船は見えなくなった。錨の周りの外周にいた船やジャンクは
激しく燃え上がった。大気がわずかに晴れ渡ったとき、観測者たちは5〜6隻の艦艇が消えて無くなっているのに気付いた。
「原子爆弾」のその瞬間の輝きは、東に昇ってきた太陽と同じ程度だった。日本は、広島や長崎も褪せるほどの大異変である、
原爆の完璧かつ成功裏の実験を成し遂げていたいたのだ。」
P49 スネル報告書の爆発が核爆発だったのかどうかの検証
1946年7月25日にビキニ環礁で行われた核実験と比較。
ワカバヤシの証言は実際の水上核爆発の状況を、ベーカー実験よりも前に、海上核爆発か浅い海中での核爆発を実際に観測した
結果に基づく、証言内容である可能性が高いと言える。
P87 海軍と荒勝のF計画に引き継がれ加速したニ計画の成果
従来の定説では、陸軍の支援により理化学研究所の仁科芳雄を中心としたグループが、原子爆弾製造を目指すニ計画を
推進したが、資材や資金の不足、空襲による設備の破壊、技術的困難などの理由で、原子爆弾開発計画は1945年春に
中止されたとされてきた。
スネル報告でワカバヤシは、「海軍の計画が始まったのは、戦争の半ばころであった。名古屋がその中心地であった。
しかしB-29が、日本本土の産業都市に殺到するようになり始めたため、その朝鮮半島への移転を余儀なくされた。
私は、B-29が日本敗北の第一要因であると思う」と吐露している。
「B-29は、我々の計画の朝鮮への移転を招いた。輸送には3か月かかった。もしB-29により移転を強いられなかったら、
我々は3か月早く「原子爆弾」を保有していたであろう」と語った。
ここでは、海軍の計画が空襲により朝鮮半島への移転を余儀なくされ3か月遅れたこと、それが原子爆弾の完成を遅らせ、
日本の敗因となったことが、元海軍士官の口から語られている。
また海軍の計画が戦争の半ばころから本格化したことも証言されている。
ウィルコックスは以下の、新たに確認された米機密文書から、海軍のF計画にニ計画の成果は継承され、荒勝文策のグループ
を中心にむしろ加速されたとみている。海軍のF計画は、1942年秋頃から本格化していった。
P103 高まる朝鮮の重要性
当時予期されていた本土防衛戦にとり、この頃、朝鮮がどれほど戦力の再編や補給基地として重要な地位を占めていたかに
ついては、1945年5月2日付OSS(戦略情報局)報告に、以下のように要約されている。
「朝鮮は日本陸軍にとり巨大な補給基地となっていた。1944年末には3800の戦時供給に携わる組織体があり、火砲、小銃、
航空機、艦船、艦艇、車両、衣料などを生産していた。その生産量は、日本固有の生産量の30〜40%を占めていた。
戦時生産は完全に、三菱、三井、野口などの統制下にあった。・・・朝鮮の水力発電量は、350万キロワットに達し、
日本の本土全体よりも多かった。」
最終的に、興南の重要性が浮かび上がってきた。同上の報告はさらに、興南が朝鮮の産業活動の中心地であることに言及している。
P116 日本の原爆開発は過小評価されている?
米国防総省の初代技術安全保障管理部長のステファン・D・オブライエン博士もライダーに同調し、「日本人たちの第二次大戦中の
核兵器計画が、小規模で失敗に終わったとされている公式的な説明は、全くの見当違いだ」、「理研はウランの精錬に深くかかわり、
興南の水力発電はウラン変換装置を稼働させるに十分だったし、興南にはウラン、トリウムなどの資源が豊富にあった。歴史の教訓
に学ぶべきことは、いかなる国家でも、生存が脅かされているとする理由を持つ国家は、核兵器を開発するであろうということである。
それは第二次大戦中に日本が行ったことだ」と発言し、「それはいま北朝鮮が行っていることだ」と述べている。
P153 日本が造ろうとしていたのはプルトニウム爆弾?
日本には、プルトニウム爆弾を製造できる可能性があった。プルトニウムは鉱石ではなく採掘はできない。
プルトニウムは原子炉の中で創り出さねばならなかった。天然のウラン238は、中性子源として爆弾で使用されるウラン235の
同位体である。ウラン238は、同位体のウラン235から中性子を照射されている。中性子の照射が一度始まると、ウラン238は、
まずウラン239になるが、崩壊を起こしてネプチウム239になり、さらに変化して最終的には核分裂を起こすプルトニウム239になる。
プルトニウム239は、米国が長崎を破壊するために使った核爆発の燃料と同じものである。原子炉に重水か黒鉛などの減速材を
挿入することにより、漏れてくる中性子をウラン238の原子核に反射させることができる。重水も黒鉛も興南では豊富に入手できた。
減速材に反射された中性子は、ウラン238により捕獲されて中性子の数が増加し、核分裂が加速され、結果的に原子炉内の
プルトニウム239が増加する。
日本人たちにとり好都合だったのは、プルトニウム239は従来からの科学的方法により簡単に抽出できた点にある。それには、
ウラン235の分離に必要とされた、複雑で時間のかかるガスや熱による分離プロセスも必要がなく、相対的に容易でかつ安価だった。
日本はウラン235を造っていた。少量のものが日本本土で造られていたことは知られている。
より多くの量が中国にあった。中国では金属ウラニウムが闇市場で売られていた。日本は、原子炉の中でウラン233に転換できる
トリウムも、原子炉の中でプルトニウムに変換できるウラン238の鉱石も十分に持っていた。日本は、これら核分裂物質の可能性を
知っていた。
このようにウィルコックスは、日本が造ろうとした原子爆弾は、トリウムとプルトニウムの混合殻を使った爆弾の可能性が高いと
みており、長崎への原爆投下直後に完成が急がれたとみている。
P240 日本の原爆実験成功が隠蔽された背景
ソ連も中国も北朝鮮も日本の造った興南などの核インフラを略奪、あるいは押収して、自らの核爆弾の開発や製造に利用した。
その事実を知られることは、自力開発の成果として誇示しようとしている、それぞれの独裁政権にとり不都合な事であった。
隠蔽は彼らの利益にも適っていた。
また、核兵器を保有して以降、特に中国にとっては、大戦末の日本の原爆実験の成功や開発の実績を認め、北東アジアにおける
唯一の核兵器国としての地位や威信を揺るがすようなことは、許されないことであったに違いない。
ただし、北朝鮮が核実験を行った2006年以降には、中朝ロなどでも、北朝鮮の核開発を正当化する口実として、日本の大戦中の
核開発の実績を報ずる動きも出ている。日本人の関係者にとっても、隠蔽する方が好都合であった。
日本自らも、広島や長崎で何十万人もが殺されたと同じ型の兵器の作業を進めていたことが広く知られれば、被爆者やその遺族
から非難されるおそれがあった。またその秘密が敵国にも知られていれば、彼らの原爆攻撃を誘発したと、知らされなかった
他の国民から非難されるかもしれなかった。さらに、戦犯裁判の影も迫っていた。
感想
「日本の計画を知り、この情報がトルーマン大統領の日本に対する爆弾使用の決定に影響を与えたかもしれない」
という一文を見て、もしそうなら日本の原爆開発がかなり進んでいたか、過大評価されていたことになる。
確実に原爆が開発されていて、抑止力になっていたらと思うと残念でならない。
日本にもノーベル賞をとるほどの優秀な物理学者がいたし、戦前から核に関する研究も進んでいた。
ウランを濃縮するための実用的な装置が開発されていたらしい。
朝鮮の興南というところに核開発に最適なインフラ、膨大な電力や施設が整っていたし空爆も免れていた。
相当量のウランが中国満州朝鮮各地から採掘されたり集めることができていた。
これらのことを勘案すると、原爆の開発は不可能ではなかったと思われる。
結論としては、日本の原爆開発は予想以上に進んでいて、もしかしたら原爆実験手前まできていたかもしれない。
興南では終戦まで何らかの核関連の生産や研究などが行われていたし、十分な能力があったと思う。
原爆実験については無かったのではと思う。研究はかなり進んでいたかもしれないが、安全で確実な爆発をさせるような
実用的な段階にまでは進んでいなかったのではと思います。
それと、実際に原爆実験が行われていれば多くの人が目撃したであろうし噂になっていてもおかしくないのにそんな話は
あんまり聞かない。それに放射能汚染や被爆についても問題になっていたと思う。
最後の方のページで明かされていたが、ワカバヤシの正体は鈴木辰三郎中佐だった可能性が示唆されている。
この本にもあるのだが、決定的な証拠はまだ無い。あくまでも証言や研究による推測でしかない。
まだ解明されていない膨大な資料があるらしいので、更なる研究が進むか情報公開が待たれるところ。
日本開国 アメリカがペリー艦隊を派遣した本当の理由 渡辺惣樹著 草思社文庫 記2022/06/13
社会人になってすぐの頃、軍事関連の本と一緒に日本の近代の歴史についての本もむさぼるように読んで一通りの知識を得た
つもりでしたが、林千勝先生の本を読んで刺激されたというか新しい資料が発見されたり研究が進んで少し歴史の見かたが
変わってきたような印象を受けたので、もう一度近代史を少し勉強しようかなあと思いました。
特に戦前の日米関係について知りたいと思って見つけたのが渡辺惣樹氏の本でした。何冊か購入しましたが、
時系列的にまずはこの本から読んでいきたいと思います。
ちなみに、自分の歴史観は渡部昇一先生とほぼ一緒です。渡部昇一先生の歴史の虹という言葉が好きでした。
左翼的な史観で日本の近代史を見ると暗くてみじめな歴史になりますが、違った角度から歴史を見るとまるで虹を見るように
日本の近代史がとても美しく見えます。戦前の日本にも良いところがたくさんあったことを教えてくれました。
惜しくも2017年に亡くなられてしまいましたが、動画で林千勝先生と対談しているのをちらっと見かけて「日米開戦
陸軍の勝算」
も読んでおられていたようなので、長生きした甲斐があったのではと思っています。
P5 結論
アメリカの日本開国の狙いは、捕鯨船の安全確保のためなどではなく、当時貿易相手国として最も富を生み続けていた支那(清国)
の市場を巡る英国との通商戦争を戦うための貿易ルートの確保であったのだ。イギリスよりも早く支那市場の情報を入手し、
短い時間で市場にアクセスする。そのためには太平洋を使ったハイウェイ(蒸気船航路)を安全にしておく必要があった。
それがアメリカの日本開国の目的だった。日本開国は、それを実現するためのプロセスに過ぎなかった。捕鯨船の安全確保は、
アメリカ国内世論をまとめるための口実だったし、日本との貿易も全く念頭になかった。つまり、アメリカ本土と最大の貿易利益
を生み出す清国とのロジスティックスルート(太平洋シーレーン)を構築するための一作業が日本開国であったのである。
だからこそアメリカの当面の目的は開国を実現させた日米和親条約(1854年)で終わっていた。日米修好通商条約(1858年)は
全く急ぐ必要がなかったのである。
感想
結論は上に書かれている通り前書きで明かされており、後はペリー来航から日米和親条約が結ばれるまでの間の色々な
出来事が淡々と書かれています。
なので普通の本のように一定のストーリーがあるわけではなく、この色々な出来事の中から読者が自分で考えてください
というような構成になっています。
気になったことは、日本開国を計画したのがアーロン・パーマーという人でロスチャイルドとの関りがあったということと
アメリカもアヘンを中国に売って利益を得ていたことと罪の意識を持っていたということ。
その利益を得ていた人物が後の大統領ルーズベルトの母方のデラノ家であったことなど。
日本1852 ペリー遠征計画の基礎資料 チャールズ・マックファーレン著 渡辺惣樹訳 草思社文庫 記2022/12/15
本書は1852年夏にニューヨークで発刊された。訳者(渡辺惣樹氏)が「日本開国」執筆に際して参考にした文献。
外国人がかなり詳細な日本の歴史の情報を持っていたことが伺われます。
諸外国はただやみくもに日本の存在を知って開国を迫ってきたというよりは、色々な情報を得て慎重に日本に
接近してきたことがわかります。
特設艦船入門 海軍を支えた戦時改装船徹底研究
大内建二著 光人社NF文庫 記2023/01/16
複雑な日本の特設艦船についてよくまとめられています。
P20 徴用された商船や漁船は次の3つに分類される。()は在籍数
イ.特設軍艦(147)
特設巡洋艦(14)、特設航空母艦(7)、特設水上機母艦(7)、特設潜水母艦(7)、特設砲艦(84)、特設敷設艦(9)
特設航空機運搬艦(10)、特設水雷母艦(4)、特設掃海母艦(3)、特設急設網艦(2)
ロ.特設特務艦船(422)
特設工作艦(6)、特設病院船(6)、特設港務船(不明)、特設測量艦(2)、特設砕氷船(不明)、特設電線敷設艦(3)
特設救難艦(8)、特設運送船(雑役)(242)
特設運送艦(155)
特設給油艦(89)、特設給炭艦(8)、特設給兵艦(13)、特設給水艦(9)、特設給糧艦(36)
ハ.特設特務艇(841)
特設駆潜艇(265)、特設監視艇(407)、特設掃海艇(112)、特設敷設艇(6)、特設防潜網艇(8)、特設捕獲網艇(43)
太平洋戦争中に日本海軍は特設艦船として民間の商船や漁船など1411隻を徴用したが、その中の1135隻、
実に80.4%が失われてしまったことになる。
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